文弥節

鳥越文蔵さんの訃報に接しました。昭和47年の夏、私は大学院生でしたが、学部時代の同級生から、早稲田大学の鳥越先生が佐渡の文弥節調査に行くが、ツアーの人数が足りないので同行しないか、と誘われました。武井協三さんや内山美樹子さんも一緒でした。

文弥節は、岡本文弥が語り、元禄頃大坂で流行った浄瑠璃の一派で、その流れが佐渡などで郷土芸能として残りました。近松の芸術論として有名な『難波土産』(虚実皮膜の論)にも言及されているので、一度聞いてみたいと思っていました。芥川龍之介がエッセイに書いた野呂松人形にも興味がありました。

佐渡へは初めて。当時は島内に信号が1つもなく、ノンストップで回れるという話でした。文弥節を語る大夫の脇から、垂幕を動かして青田の風が入り、これが郷土芸能の真髄だと思いました。野呂松人形からはお決まりの水鉄砲を引っかけられ、とぼけた風貌の土鈴が気に入って買いました。

夜は1升瓶から茶碗で冷や酒を呑み、上半身シースルーの女子学生に度肝を抜かれ、ワセダの学風は私にとって異文化接触でした。尤も、風呂は男子が先だというので、日替わりにしようと提案した(暑い時期、汗臭い男子十数人が入った後では辛い)のは、彼らにとって衝撃だったようです。

内山さんの調査熱心には舌を巻きました。パラソルを差しながら、どこへでも真っ先に行く。平曲との相違を訊かれましたが、音曲としての平曲には不勉強だったので十分答えられず、浄瑠璃から見ると平曲は全曲ユリのようだ、と言われたのを覚えています。

一行が詳しい調査に入ってからは、私たちは無用(邪魔)なので、別れて観光旅行をして帰りました。民宿で、朝から活きた鮑が出たのを思い出します。

当時の調査について、田草川みずきさんが書いています。https://core.ac.uk/download/pdf/144457632.pdf