替え歌

植木朝子さんの「歌い替え・替え歌・連作・類型歌・継承歌-今様のヴァリアントをめぐって-」(「古代文学」56号 2017/3)を読みました。

芸能はゆれるのが当たり前、むしろ固定した時に芸能としては死ぬ、と考えていたのですが、なるほど歌謡の「歌い替え」という独特の創作方法を、テキスト論として考えてみるのも有益かもしれません。平家物語には、「殿上の闇討」「祇王」を始め、歌謡の歌い替えによるメッセージが、物語の中で重要な役割を果たしている例が幾つもあります。和歌でもなく手紙でもない、大勢の人前での即興は、一種独特の効果・機能を持っていたと見なければなりません。

植木さんは406,431の歌謡を、保元の乱後、讃岐の松山に流された崇徳院に関連するのではないか、しかし事件から採録までの時間が短すぎるので、後年の増補かも知れないと述べています。『梁塵秘抄』を通読したのはもう遙か昔のことなので、研究の現況には通じていませんが、私はふと、時間的に近いからこそ時事の替え歌と見ていいのではないか、と思いました。『梁塵秘抄』の編集・成立過程については、どの程度明らかになっているのでしょうか。『新古今集』における『源家長日記』のような資料が、『梁塵秘抄』にはない。案外、後白河院は、自分の周囲で新しく歌い出されたものも、構わず編集過程で突っ込んでいったのでは。

しかし保元の乱で敗れて、怨念に囚われ、望郷の念に苦しんでいた崇徳院を今様でおちょくり、その歌詞を自ら編んだ集に採録した後白河院とは-尤も当時、反逆者は狂歌や駄洒落を以て鎮撫されるのがつねでした(『軍記物語論究』63頁以下)。『梁塵秘抄』は名曲集ではなく、毒をも含んだ、生きたコミュニケートの花束だったかもしれません。