声と文字

大隅和雄さんの『中世の声と文字―親鸞の手紙と平家物語-』(集英社新書)を読みました。大隅さんとはかつて日文協の太平記輪読会(本ブログ「昭和一桁のつぶやき」参照)で御一緒しましたが、定年後文学関係の学会にはお出かけにならないようで、20年以上ご無沙汰しています。

まえがきには、学生時代に石母田正『中世的世界の形成』を読破した時の衝撃が述べられています。本書は親鸞の著述、中世の手紙、世の移り行きを書く、平家の物語、の4章から成り、あとがきに梁塵秘抄について触れていますが、やはり大隅さんの真面目(しんめんもく)は愚管抄を扱った第3章でしょう。愚管抄の読みにくさは抽象名詞がしばしば複数の意味で使われることにある(鍵語の「道理」は特に)と思うので、私の授業では、大隅さんが以前書かれた解説書で読むことを勧めてきました。

平家物語を扱った第3,4章は、軍記物語専門の私からは異議申し立てしたい箇所もありますが、概ね妥当な記述になっています。あとがきに平家物語は「行長と生仏の合作であった」とし、生仏が中途失明者であったかどうかにより、平家物語の詞章を「声として憶えるか、文字を思い浮かべながら憶えるのかという差が生れ、両者の間には、大きな違いがあったのではないか」と述べていることに注目されます。

蛇足を一つ。p58,為房の妻の手紙の一節、「やうやうひかずおほうなしつると思たまふるになむ」の部分の現代語訳は、「やっと日数を多く重ねたと思っておりますので」では。「たまふる」は謙譲の補助動詞。逢いたいと思いながら我慢してきた、という母の気持ちではないでしょうか。

大隅さんの温顔を思い出しながら、そんなあれこれを、御一緒にお話ししたかったなあ、と思います。