数字

国の基幹統計がいい加減だったことが問題になっています。雇用、賃金、勤労と、最も基本的な数字が信用できない、連続性があやしいとなると、政策の成果を擬装しようとした、と疑われても仕方がないでしょう。その上、検証作業を請け負う第三者委員会のあり方にも疑問点が多い。統計の専門家たちはどうしているのか、行政の都合に引きずられるだけで傍観しているのか、と言いたくなります。

ここ20年の官僚の劣化が言われていますが、官僚だけでなく、日本人の数値への感覚が摩耗しているのでは、と思うことがあります。製造業での検査の不正も、同じ現象ではないでしょうか。このくらいはいいや、とする甘さがどんどん拡大してしまう。手抜きと合理化のはき違えもあります。すぐには危険が顕れてこないが、いや、すぐではないから、最もいけない状況です。

自分の手足でものを作っていた頃、自分の五感でできばえを確かめていた頃は、数字の怖さにも裏付けがあった。数値は液晶画面に出てくるだけになり、多少のずれは大丈夫、と、いつのまにか根拠のない慢心が広がったのではないか。デジタル時代の数字とのつきあい方を、文化論として考えるべきかもしれません。

統計調査の不正に関しては、厚労省の仕事が近年多岐に亘り、量的にも多すぎるようになったからだ、という声もあるようです。なら、そういう声を揚げるべきでした。高齢化・少子化社会では厚生行政こそが国を支える、未体験の未来に備える統計の数字は最も大事、くらいの使命感を、政治家が官僚やその周辺に吹き込んでもよかったのではないですか。