学びの原点

國學院雑誌」10月号が届き、中でも川合康三さんの「渋谷で中国古典を読む」と飯倉義之さんの「日本色話大成序説―研究史の整理から―」2編が印象に残りました。

川合さんは渋谷へ赴任して3年目、現代文化最先端の街で、時代遅れの古くさいものに見える古典文学を学ぶ学生たちが、当初は戸惑いながらやがて意志的な集中力と中国詩文を読む力を身につけていくことに感嘆し、古典は固定したまま凍結されてきたのではなく、時代ごとの解釈によって新たに捉え直されたもの、つまり各時代の「新」の集積だと述べ、人間を長い時間の中で捉えることによって、文化への畏敬の念と自らの小ささを知ることの必要性(大学で学ぶ、その原点です)を説いています。

飯倉さんの論文は、村落共同体の中で語られてきたいわゆる色咄が、口承文芸研究や民俗学研究史上、放置されてきたとして、題名の通り、研究史の整理を試み、今後の体系的な研究への序説を呈示しています。平成初期に過大評価された、柳田国男は性習俗を政治的、倫理的に否定したとの批判を改めて検証し、柳田自身は性民俗・性信仰・色咄の領域を認識しながらもあえて資料収集や分析には着手しなかったのだと述べ、その後の社会変化につれて浮き沈みした民話・昔話研究の流れを粗描します。

偉大なフロンティアを、僅かにポイントを外した我田引水の批評で潰し、その後の研究や論調をねじ曲げてしまう「批評家」というものは、どこの分野にもいるんだなあ、と思わず苦笑しました。曲げられた軌道を修正して遅ればせながら道を拓こうという、飯倉さんの意気に拍手したい。今後資料を収集・整理し、話型の分類をし、色咄(艶笑譚)の背景にある生活感覚、感情、発想を探る、と言っていますが、ひとつ注文―オトコ側からの視点だけでなく、女性社会の艶笑譚をもオンナ側から見ることを忘れずに。