一房の葡萄

初夏と晩秋は果物の彩りが楽しめる季節。我が家は毎朝果物を食卓に出し、仏壇にもつねに果物を上げてあるので、スーパーや八百屋の店先が気になります。いまは輸入物の葡萄が年中出回っていて、大きな粒を皮ごとむしゃむしゃ食べるようですが、いまいち葡萄らしくない。友人のアメリカ留学に便乗してNYを訪れた時、粒は小さいが甘くて皮ごと食べられる葡萄(レーズンの生、という感じでした)と珈琲だけの朝食を出されて、なるほどアメリカらしいなあ、と妙な納得をしました。

父祖の地博多は水の悪い所で、幼児がよく疫痢で亡くなり、父の妹もそうだったようで、我が家では、漿果の類は子供は食べさせて貰えず、葡萄を食べられるようになることは即ち大人になることでした。ところが、ある時友人が赤子連れで遊びに来て、マスカットを出したら(勿論、大人の友人向けに。当時マスカットは、最高級果物でした)、次々に皮を剝いて赤子に食べさせ、「うちの子、これが気に入ったらしいわ。もっとない?」と言われてのけぞりました。

市販の葡萄は一色ですが、庭先で栽培された実は、さまざまな色(紫、臙脂、茶、緑の濃淡)のグラデーションになっていて、見とれるほど美しい。画才に自信のない私でも、色鉛筆で写生したくなります。そんな時思い出すのは、有島武郎の「一房の葡萄」。子供の頃寝たきりだった私が退屈して、なんか読む本ない?と父にせがんだら、書架から抜き出して貸してくれたのが、その文庫本でした。絵の具の貸し借りから仲違いした少年2人に、女性教師が窓の葡萄棚から1房の葡萄を採って、銀色の鋏でぷつんと2つに剪って分けてくれる話です。先生の白い手に載った1房の葡萄は、きっとこんな色合いだったろう、と、未だにありありと想像するのです。