川合康さんの「山内首藤俊綱の「討死」と軍記・絵巻・合戦図屏風」(科研費B報告書『戦国軍記・合戦図屏風と古文書・古記録をめぐる学際的研究』 2019/3)を読みました。平成30年度に終了したこの共同研究の成果は、書籍として刊行する予定が取りやめになったのだそうで、惜しいと思います。軍記物語講座第4巻のあとがきにも書きましたが、戦国軍記の研究は、文学単独よりも史学や美術・民俗などの学際的な研究が有益であり、あちこちで共同研究が行われていることを仄聞していたからです。
川合さんの論考は『平治物語』で討死した場面が描かれる山内首藤俊綱は、実はその後も伊勢国惣追捕使代として活躍しており、文治元年10月に義経軍の襲撃に遭って殺されたのが史実であろうと論じるもの。お手紙によれば、40年前の卒論以来、ずっと持ち続けてきた疑念を解決したとのことです。
相模国の武士団山内首藤一族は『保元物語』『平治物語』にも登場しています。川合さんは『平治物語』諸本や『吾妻鏡』、貞治3年(1364)写「山内首藤氏系図」、室町初期写の「山内首藤氏系図」などを比較参照して、当初は義通(通義)・俊通父子が平治の乱で討死した記事だったものが、1代後の俊通・俊綱父子の討死譚に変化し、それが延慶本『平家物語』などに浸透していったと考えています。何故なら醍醐寺文書、『玉葉』などの史料を勘案すると、寿永3年(1184)以降、俊綱は兄経俊の代官として伊勢国内の在地の紛争処理に当たっていたらしく、山内家の系図には、文治元年に伊勢守護であったために誅せられたと記されているからです。
さらに川合さんは「平治物語絵巻六波羅合戦巻」、メトロポリタン美術館蔵「平治合戦図屏風」の山内首藤氏が登場する場面の典拠を考察しています。なお、絵画資料に貼られた短冊形は、後からのものだと考える方が安全でしょう。