花散里

塚原明弘さんの「「葎の門」の「らうたげならむ人」―光源氏と花散里―」(「國學院雑誌」10月号)という論文を読みました。最近の源氏物語研究に詳しいわけではないので、門外漢の感想ですが、たいへん面白く読みました。雨夜の品定め以来、「葎の門の」「らうたげなる」女というイメージに憧れながらなかなか叶わなかった光源氏が、須磨から帰り、ようやく花散里がその条件に適うのを見出す(澪標巻)のだと論じます(花散里を最も好きな女性に挙げる人は少なくないのではないでしょうか。後年、家刀自の役を務めるのは彼女でした。男女の間は色恋だけがすべてではないことが示されていますが、この点は塚原さんの論には関わってきません)。

源氏物語の論文を読みながら(いささかの羨望を以て)感心するのは、言葉にこだわって作品を論じられることです。鍵語を見つけて拾いながら、物語全体を展望していく事ができる。最近は索引類が使いやすくなったためか、軍記物語でもその方法でやろうとする人が多くて、しかし軍記物語ではあまり成功せず、表面的な俯瞰に終わることが殆どです。何故でしょうか。一つには源氏物語が大部で、さまざまなタイプの人物や状況設定が含まれていること、もう一つは歌語の蓄積の上に成り立っていることが関係しているかなと思いますが、未だ私の中でもやもやしています。

かつて第一論集を出した時、先輩の鈴木日出男さんから、「源氏物語ではこの問題はどうなのかなと考えながら読んだ」というお手紙を貰って感激しました。同じ文学なのに源氏物語が他の作品から孤絶しているのはおかしい。軍記物語も同様です。苦闘しながら少しでも先輩に近づきたいと思います。