外交的おもてなし

何十年も経ってひょっくり意味が判る、という事柄があります。

日本巡航見本市というプロジェクトの、代表団長伴侶という役柄で東南アジアを歴訪したことがありました。55年前のこと。見本市船に乗船する前に、ニューデリー日本大使館で晩餐に招かれました。駐印大使夫妻はとても気さくにもてなして下さり、未だ学生だった私は、外交官の習慣というものが初体験でしたし、当時は英国植民地時代の雰囲気が残っていた印度の、上流社会の作法も物珍しかったのです。

食事が始まるや否や、大使夫人が、白服で給仕する印度人職員に何か小言を言われました。職員は苦笑して、逃げるように出て行き、夫人は「赤い靴下なんか穿いてるんですよ」と私たちに説明し、「日本語は通じないけど、自分のことが言われてるのは分かってるらしい」と言われました。その時私は、彼のおしゃれ感覚が大使館のドレスコードに合わなかったんだな、としか思いませんでした。

外交交渉の場や外国からの賓客を接待する場に活ける花には、特別の留意が払われます。国旗に因んだ色の花を取り合わせたり、両国の国花を活けたり、逆に無縁な色を選んだり。盆栽に詳しい人から聞いた話では、皇室が所蔵する盆栽には著名な逸品が多く、接客の場に飾られた盆栽を見ただけでも、おもてなしの格が判るのだそうです。

あの時、大使館の職員は、日本から来た賓客をもてなす心算で、赤い靴下を選んだのではなかったか。白服に差し色の赤は、彼に出来る範囲での日の丸表現だったのかも。今になって、ふとそう考えることがあります。大使夫妻も(多分あの印度人職員も)もう鬼籍に入ってしまって、もてなされた若い娘が半世紀後に理解したところで、何の役にも立たないのですが。

長明と遷都

午後から、Zoomで東大中世文学研究会例会に参加しました。発表は村瀬空さんの「寛喜四年三月『日吉社撰歌合』考―藤原為家と「撰歌」―」、木下華子さんの「『方丈記』の「都遷り」について―遷都の表現史から―」の2本、参加者は約20名でした。

和歌は専門外なので1本目は感心して聞くだけでしたが、捉えどころの難しい為家に何とか食い下がろうとしていることがよく分かり、源家長の撰外歌と採択された歌との比較が面白かったのですが、「実情性」という語の内容には未だ不安を覚えました。

木下さんの発表は、方丈記のいわゆる五大災厄記事の中、福原遷都について、単なる事実ばなれの指摘に留まらず、表現形成の和歌的背景を辿り、後の紀行文学に通じる視野を見いだそうとしたもの。遷都については他の災厄記事と違って、記録類とは重ならない叙述になっていることが以前から指摘されていましたが、大福光寺本の独自本文の背後には万葉歌を始めとする遷都詠の積層があることを丹念に論じました。それらの歌群は、都人たちの移動と旧都の荒廃を歌うのが通例になっており、荒れたる古京と不変の自然を対照させることが多い。方丈記も同様で、これらの災厄を「世の不思議」とし、事実に意味づけせず、因果律からは解放して記述している、それは羈旅歌に共通する視点でもある、というのです(9月17日の説話文学会で聴くことができます)。

発表後の質疑応答も相互に議論が成り立つ、活発なものでした。辻風には「サルベキモノノサトシカ」という評言がついているのをどう考えるか、長明にとって賀茂大明神に護られた平安京が捨て去られることには、特別な感慨があったのではないか、長明は類聚古集をどの程度自家薬籠中のものとしていたのか等々。改めて日本古典文学の生成に占める和歌の重み、その研究に国歌大観DBがどれだけ貢献しているかを認識しました。

不断のリスク管理

報道を見て、えっ、今さらこんなことだったの、と思うことが増えてきました。絶滅危惧種をネットオークションでは扱わない、と決めたとのニュースを見て、今までは野放しだったのか!と驚いたのもその一つ。園長が臨時に運転した通園バスに3歳児が取り残され、熱中症で死亡したという記事を読んだ時は、園児の乗降をどうして確認できなかったのか、変な事故だなと思いました。6人くらいなら目視で出来たのではないか。

その後の記者会見の酷さも含めてネットは炎上していますが、添乗職員が降りてくる園児を確認し、運転が終わった園長が車内に忘れ物がないか見回ってから(小さなバスです)降りれば無事だったはずで、ごく簡単なこと、日常習慣のレベルでしょう。70代の職員が降車時に6人全員登園と入力したというのですが、じつはこれがいけなかったのでは。デジタル登録するのなら、データが担当保育士のモバイルに届くようにしておけばよかった。何のための登録なのか。むしろこの作業があったために、現場確認が疎かになった(老眼鏡で慣れない入力作業をして、すべてを了えた気になってしまった)のではないでしょうか。そもそも集団を運ぶ時は、乗降の度に人数を数えるのが常識。学会で案内する見学旅行など、元来気ままな学者集団(しかも老人が多い)なので、何度も数えます。

このニュースでさらに理解出来なかったのは、父母説明会で13人(父母7、保育士6)もが過呼吸状態になり、救急搬送されたこと。父母は分かるが保育士が倒れたのは何故?園長・副園長だけでなく、組織内のプロ意識がどういうものだったのか、疑問です。ふだんの現場で、これはいけない、こんなでは責任が持てない、と思うことがあったら、直ちに申し出ておくのもプロの仕事のうち。給料の問題ではない。

自衛としては、子供に運転台の警笛ボタンの位置を教えておくことでしょうか。

文芸論の探求

高田祐彦さんの『高木市之助 文芸論の探求』(岩波書店 近代「国文学」の肖像第5巻 2021)を取り寄せて読みました。

高木市之助は昭和49年(1974)、87歳で亡くなりましたが、2年前までフェリス女学院大学に勤め、昭和35年には日本古典文学大系の『平家物語』、国語国文学研究史大成『平家物語』を渥美かをるらと共著で出し、いわば近代的平家物語研究の礎を樹てた人でした。古典大系平家物語』の解説には、異本が多く、語り物である平家物語を「眼で読む」とはどういうことかを苦心しながら論じており、私にとっても卒業論文以来、先達としてずっと視野の先にあった学者です。本書の表紙にデザインされた『吉野の鮎』『古文芸の論』『国文学五十年』などは、かつて我が家の書架でも見慣れた本でしたし、フェリス女学院に非常勤で出講していた時も、屡々彼の名前を耳にしました。

本書は略伝、1文芸の本質と研究、2叙事と抒情をめぐって、3自然・環境・風土、まとめ、という構成になっていて、広汎で膨大な業績の中から、選んでこの3本の柱を立てたことに、まず高田さんの主張があると見るべきでしょう。石山徹郎や岡崎義恵、風巻景次郎など、高木の歩みにつれて挙げられる著作は、私も20~30代に一度ならず取り組んだことがあるので、今更ながら、ある時期から自分のフィールドがぐんぐん狭く限定されてきたことを、悔しさと共に再認識しました。

高木の指向も戦中戦後では時代の影響を大きく受けており、完了しない大仕事に挑んだ先人、という私的評価を新たにしたのですが、殊に叙事と抒情の問題、覚一本の達成とは何か、語りと文芸との関係などは、今なお私たちの前に遺されたままです。定年後の中世文学会講演でそのことを言挙げしながら模索のうちに時が経ち、忸怩たる想いでいます。

信濃便り・宝珠篇

長野の友人の庭では、去年我が家から送った観賞用パプリカの苗を冬越しさせて育て、豆電球のような実が色づき始めた、と写メールが来ました。

2年越しのパプリカ

なるほどこんなに大きくなるのか。一昨年花屋で苗を買った時は、実の色が赤と黄色と紫の3種を揃えた心算だったのですが、我が家で育てたら全部赤くなってしまい、採種して翌年播いたら全部黄色になってしまったのでした。花屋は、実生では本卦還りするから、と言ったのですが、写真を見ると、1株に白、紫、黄、赤と、宝珠の造り物のように色とりどりの実がついています。これは観賞に堪えます。

我が家では今夏、3代目の実生を育てました。濃い緑の葉陰に咲く星形の白い小さな花も可愛いが、丸みを帯びた三角錐形の緑の実が頭をもたげてくると、小さいながらも威風堂々という感じになります。

日々草の勁さに圧倒される近年は、コリウスやコキアのような葉物を混ぜ植えして夏の照り返し対策にしていたのですが、今年は苗を同時に入手できず、それぞれ別のプランターに植えたところ、コキアが蓬髪状態になり、枝はまるでカーリーヘアのようになってしまいました。子供の頃、事典で覚えた「麻の中の蓬」という諺を思い出します。今年の主役はトレニアで、売れ残りの貧相な苗だった日々草も逞しくなり、代わる代わる咲き続けて目を楽しませてくれています。

だんだん陽ざしが移動して、室内に近づいてきました。日照を好むもの、半日陰が向いているもの、それぞれ鉢を移動させてやらなくては。早くもムスカリの芽も出始めています。「歳月人を俟たず」を眼前に突きつけられながら、「雪山の鳥」の喩え通り、逡巡に満ちた毎日を送り迎えしているのです。

女性冠詞

日本語学の高崎みどりさんが「桜蔭会会報」復刊264号に、「”女性冠詞”を取り払って」という題で会長挨拶を書いています。そうか、あれは女性冠詞というのかーと思いながら読みました。「女性で初めて」「女性初の」等々の但し書きをつけて業績紹介される場合の違和感についてです。褒めているんだから何がいけないと言われそうだが、と断りながら、「女性」の部分で称揚するということはまた、「女性」の部分で貶める(女だてらに、とか)のと表裏一体ではないかと言っています。

「女性として初」よりも何をしたかの方がずっと重要で、聞く方はそちらを知りたがっているのにとしつつ、性別とは関係なく、評価に値することをやって結果的に「女性ではじめて」となったのであって、それまで女性に達成しにくかった仕組みを温存してきた社会の側が猛反省すべきだろう、というのです。

古くて新しい、いや未だに無くならない問題です。英国ではすでに女性首相は3人目、この次は序数で数える必要もなくなるでしょう。

20年くらい前まで、私は女子のゼミ生が卒業する時、貴女方は働き続ければ必ず、先例がない、女では初めて、と言われる局面に出遭う、その時ひるむな!と言って送り出してきました。非常勤で産休を取るのは初めて、主要科目での専任採用は初めて、管理職には初めて・・・先例は絶えず更新されるのが、活性化なんだから。

しかしだんだん、女性でもひるまずやらなければ、とは考えなくてもいいかな、という場合が増えてきました。大抵の大仕事は、舐めてかかってくる連中、嫉妬する人たちを取りさばきながら達成しなければなりません。無駄なエネルギーはもう使いたくない、と思うせいでしょうか。女性でも、よりもやり遂げられればそれでいい。日和ったかなあ。

きのこ

玄界灘のほとりで育った父は、きのこを莫迦にしていました。あれは飢饉の時に食べるもんだ、と言うのです。福岡方言では、きのこを「なば」と言います(毒茸を「なば」と呼んで区別する土地もあるらしい)。湿った触感がよく出ている語だと思います。

山国、広葉樹林と湿気の多い土地では、きのこ狩りは生活の一部であり、郷里の味として忘れ難いもののようです。名古屋に勤めていた時、中国人留学生が東山植物園で、故郷の茸に似た茸を見つけて採って食べ、中毒死したことがあって、知らない土地で知らない茸なんか食べるかよ、と思いましたが、望郷の念止み難かったのでしょうね。都会では栽培された茸しか食べませんが、周囲に絶好のきのこ狩り用地のある所では、季節が来れば出かけたくなるのでしょう。ちなみに、私が今までで一番美味しいと思った茸料理は、蔵王の宿で出た舞茸の天麩羅でした。

鳥取は茸の栽培工場が早くからあり、昭和天皇も見学に訪れたことで有名です。学生の話では、楽なアルバイトだと思って暫くやってみたが、家へ帰っても独特の臭いが脱けないのに閉口した、と言っていました。瓶に詰めた菌糸から茸が生え揃ったら、瓶の口に合わせてナイフで切り落とす作業だったそうです。

木曾義仲が上洛して接客に「無塩の平茸」を勧める話は有名ですが、当時平茸は食材として値打ちがあり、生鮮魚介類が入手しにくかった京都や木曾では、「無塩」は今でいう「朝穫れ」みたいな語感だったのでは、という注釈を見たことがあります。

今回の大河ドラマでは、義仲は嘲笑の対象にはなっていませんでしたが、北条義時の3度目の結婚ときのことの関係が、ネット上で話題になっています。多分あのドラマでは、主人公は毒茸で死ぬのでしょう、妻の手料理で。