リノベーション

親の家を売ってから4年近く経ちました(本ブログ「空蝉の家」)。築50年目で売ったのですが、マンションとしては走りの時期に建てられたため、30年目に内装を新しくした時、コンクリートの箱の中に木造家屋を建てたようなつくりになっている、と業者がこぼしたほど、きっちりできていました。直接の引き合いもあったのですが、暫く空家にしてあったのでインフラ点検などが必要と考え、リノベーションを前提に業者に売りました。

南にバルコニー、北と東に窓があったので、当初は夏の冷房は要らないほどでしたが、やがて北にも東にも、手を伸ばせば届きそうなくらい密着してビルが建ちました。南には大きな通りがあって塵埃がひどく、掃除が大変でした。私が同居したのは12年間ですが、その後も定期的に掃除や家財整理に通い、辛い思い出が多かったのです。未だに、手のつけられないほどの家財の整理に立ちすくむ夢を見ます。相続後も整理作業が終わるのに15年かかり、ようやく手放した時は、寂しさよりも安堵の方が勝ちました。

先日、ふとしたことでウェブ上の不動産広告を見つけました。リノベーション後、売れたようです。詳しい内部写真も公開されていて、和室や女中部屋など使いにくかった間取りはすっかり今風の3LDKに改修され、照明も明るくなっています。内装は「木目を活かし」て、床も壁もすべて板張り。壁紙を剥がして磨いたのかもしれません。却ってモダンで、洒落て見えます。これなら住みたくなるなあ、と思いました。

これまで何度か、リノベーション済み物件を下見した経験がありますが、どことなく「年増女の厚化粧」みたいな不自然さが濃厚で、落ち着いて住むには不向きだと思っていました。この分野のノウハウも蓄積され、進歩したんですね。何故か、務めを無事果たした、との感慨が溢れてきて、しばし訣別の思いに浸りました。

後醍醐天皇の面影

君嶋亜紀さんの「後醍醐天皇の面影ー南北朝期の五撰集からー」(「大妻国文」52号)を読みました。最初に『風雅集』中の後醍醐天皇の「治まれる跡をぞしたふ」(1806)歌と光厳院の「治まらぬ世のための身ぞ」(1807)歌とを取り上げ、両者が並置されていること、またこの時期に集中して見られ、時代相を探るのに有効な歌語(中世歌語)が使われていることに注目しています。なるほどこれは、興味を惹かれる問題です。

建武の新政が挫折し、吉野山中に南朝を建てて京都を遠望しながら亡くなった後醍醐天皇が、『風雅集』を親撰した北朝光厳院と並置されていることに、どういう意味があるのか。また「治まらぬ世」「わが九重」「みづからぞ憂き」「天つ日嗣」「わが国」「よろづよの春」等々の政治性を帯びた中世歌語が、北朝の勅撰集『風雅集』『新千載集』『新拾遺集』『新後拾遺集』と、南朝の准勅撰集『新葉集』にどのように現れてくるかが考察されています。

『風雅集』には後醍醐天皇を追悼する意図もあったのではないか、二条派の手に成る『新千載集』には、かつての「治まれる跡」を思い、民を思う為政者後醍醐の面影が刻まれており、また後光厳天皇と後醍醐を並置することによって後光厳の正統性を顕示したのではないか、『新葉集』は、後醍醐を重視しながら南朝歌人の歌を採らなかった『新千載集』をつよく意識している、そして後醍醐という強烈な存在は南北朝期の勅撰集に重要な位置を占め続け、それに対峙する各立場を照らし出している、と結びます。

『風雅集』には平家時代への関心が見られ、また覚一本が成立した時期でもあり、よそごとでなく興味を以て読みました。『太平記』研究には資するところが多いでしょうが、『平家物語』研究ではどう参考にしたらいいのか。考え続けてみたいと思います。

コロナな日々 13th stage

政府・知事会のコロナ対応は、まるで裏目裏目を狙ったかのようです。感染者数を抑え込めないまま緊急事態宣言を解き、蔓延防止「措置」に切り替え、送迎会シーズン、行楽シーズンになだれ込んでしまった。詰めが甘く、最終責任を負う覚悟がない。まず感染拡大を停め、同時に医療体制と生活安全網を整え、経済復興をデザインしていくのが、行政の役目ではないでしょうか。マスク会食だの飲食店見回りだのが解決策とは思えないし、ワクチンに重症化を防ぐ効果はあっても、感染や伝播を止める効果はない。医療従事者への接種も未だ2割前後、16歳未満にも感染・伝播の可能性はあるわけですから。

みんな疲れてきました。実際、仕事に支障もあります。私の場合で言えば、注釈の仕事を抱えているのに図書館が使えない。新着雑誌を一読する場所もない。見比べて買う消耗品の買い付けに行かれない。しかし今必要なのは、まず感染者数を増やさないこと、安定した治療法が国内に普及するまでは平常時ではないのだ、との認識を共有することではないでしょうか。たとえ選挙に不利でも、大きな国際的イベントを諦めてでも。

人出の少ない時間を見計らって、播磨坂まで出かけました。並木は葉桜になっていましたが、八重桜が2,3本咲き、新緑に躑躅が鮮やかで、姫卯木が咲きこぼれる家や、木香薔薇を門に仕立てた家も見つけました。歩きながら、足早な季節を惜しむ気持ちに胸を締めつけられました。こんな感覚は、高校卒業か学部生だった頃以来です。残り時間がもうないのに、という気持ちだと言ったらいいでしょうか。

有名なケーキ屋で焼菓子を買い、八重桜の花を2輪拾って帰り、硝子の盃に浮かべて仏壇に上げました。来年の桜にまた逢えるだろうか、それまでに仕事の目途は立つだろうかー咲き残りの八重桜は花びらが緩んでいて、盃の中でほろほろ崩れました。

桜づくし・川越便り篇

桜前線は東京から離れつつありますが、未だ種類によっては八重桜や枝垂桜が楽しめるようです。川越の友人が送りつけてきた桜アルバムから抽出してみました。

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大山崎山荘美術館からの遠景

大山崎山荘は、山崎の駅から天王山の坂道を登って15分か20分ぐらいでしょうか。関西の実業家加賀正太郎が建てた英国風の別荘です。加賀はこの地で趣味の蘭栽培に熱中し、『蘭花譜』という豪華な植物図譜を出版しました。蘭愛好家垂涎の的の図譜らしいです。加賀夫妻死去後は転売を繰り返され、荒廃したので、地元の有志が京都府大山崎町の行政を巻き込んで、保存運動を展開しました。アサヒビールが買い取って、山荘の復旧工事をし、安藤忠雄設計おなじみの打ちっぱなしコンクリートによる建物「地中の宝箱」、「夢の宝箱」を付け加えて、美術館として開館しました。2階の喫茶室のテラスからの眺めは絶景です。桂川宇治川・木津川の合流点を見下ろし、対岸に男山、背後に奈良の山並みが霞んで見えます。木津川と宇治川を分ける堤防は「世割堤」と呼ばれ、春の京都を代表する名所として有名な桜並木が一望できます。】

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秩父荒川の清雲寺

荒川村とは東京の荒川の源流域にある村です。数年前、付近に埼玉県最大のダム(浦山ダム)ができました。この寺は岩松山清雲寺という禅寺で、寺の庭のほぼ中央に、応永27年(1420)開山楳峯香禅師の手植えと伝承される江戸彼岸桜の巨木があります。樹齢600年、樹高15mの枝垂桜です。県指定の天然記念物になっています。埼玉県の桜の樹としては一番有名かもしれません。

境内にはおよそ30本の桜があり、多くは秩父紅枝垂れという、やや色の濃い桜です。エドヒガンは淡いピンクなので、色の異なる桜が重なる風景はたいへん美しい。秩父鉄道武州中川駅から歩いて15分程度の、のどかな田園の中にあります。】

フェリス百人一首

フェリス女学院大学文学部日本語日本文学科編『フェリス百人一首』を読みました。本書はフェリス女学院創立150周年記念事業として、日本語日本文学科の谷知子さん・島村輝さんが中心になって企画・編集したもの。和歌・短歌の魅力を現代に、そして未来へと伝えたい、そのために新しい時代の百人一首を作ってみようと、同大学の日本語日本文学科の教員と学生から好きな和歌・短歌を公募したそうです。それを選ぶ「和歌所」と、イラストを描く学生たちの「絵所」を設けて本書を作ったとのこと。

100首の冒頭は和歌の創始とされている須佐之男命の「八雲立つ」歌で、以下各時代ごとに、人々に愛誦されてきた和歌が並び、要領よく解説がつけられ、合間にコラムが挟まれていますが、81首目からは近・現代の短歌で、米国の詩人アーサー・ビナードやセーラー服の歌人鳥居の作品も含まれています。私には、この近現代の撰歌が新鮮でした。コラムに注目すると、和歌文学に限らず、文学史の基礎知識がぎっしり詰まっていて、本書をテキストに使って、日本文学概説の授業なども楽しくできるのではないかなと思いました。巻末に「和歌・短歌を学ぶための読書案内」が付載されています。

各歌の解説は簡明ですが、中には鋭い見解もあって、頼朝と慈円の応答についての谷さんの読み(123頁)に深く納得しました。なおコラム「秋の虫」については、植木朝子さんの『虫たちの日本中世史』に最新の見解があります。

私は本書を記念の非売品として頂いた(若い頃、長期間、非常勤講師として勤めました)のですが、花鳥社から『和歌・短歌のすすめ』という書名で発売されてもいます。最近、和歌文学関係では一般読者や次世代と古典研究とをつなぐ企画が続々出て、どれも好ましい水準を保っていることに、少々羨望と焦りを感じているところです。

文弥節

鳥越文蔵さんの訃報に接しました。昭和47年の夏、私は大学院生でしたが、学部時代の同級生から、早稲田大学の鳥越先生が佐渡の文弥節調査に行くが、ツアーの人数が足りないので同行しないか、と誘われました。武井協三さんや内山美樹子さんも一緒でした。

文弥節は、岡本文弥が語り、元禄頃大坂で流行った浄瑠璃の一派で、その流れが佐渡などで郷土芸能として残りました。近松の芸術論として有名な『難波土産』(虚実皮膜の論)にも言及されているので、一度聞いてみたいと思っていました。芥川龍之介がエッセイに書いた野呂松人形にも興味がありました。

佐渡へは初めて。当時は島内に信号が1つもなく、ノンストップで回れるという話でした。文弥節を語る大夫の脇から、垂幕を動かして青田の風が入り、これが郷土芸能の真髄だと思いました。野呂松人形からはお決まりの水鉄砲を引っかけられ、とぼけた風貌の土鈴が気に入って買いました。

夜は1升瓶から茶碗で冷や酒を呑み、上半身シースルーの女子学生に度肝を抜かれ、ワセダの学風は私にとって異文化接触でした。尤も、風呂は男子が先だというので、日替わりにしようと提案した(暑い時期、汗臭い男子十数人が入った後では辛い)のは、彼らにとって衝撃だったようです。

内山さんの調査熱心には舌を巻きました。パラソルを差しながら、どこへでも真っ先に行く。平曲との相違を訊かれましたが、音曲としての平曲には不勉強だったので十分答えられず、浄瑠璃から見ると平曲は全曲ユリのようだ、と言われたのを覚えています。

一行が詳しい調査に入ってからは、私たちは無用(邪魔)なので、別れて観光旅行をして帰りました。民宿で、朝から活きた鮑が出たのを思い出します。

当時の調査について、田草川みずきさんが書いています。https://core.ac.uk/download/pdf/144457632.pdf

花の便り

辻英子さんから、伊香保の別邸の菩提樹の根元に咲いた花です、とメール添付で写真が送られてきました。

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Scilla sibirica

ウィーン産だとのことで、さすが国際人の辻家です。一見して、小さいヒヤシンスかと思いましたが、よく見ると違うらしい。シラー・シベリカは、弊国でいえばツルボの仲間。早春に咲く球根で、庭石の根元などに植え込むのによさそうです。

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Schneeglockchen

こちらは、スノードロップという名で国内でもよく見かける花でしょうか。春先らしい可憐な趣です。

今年はあちこちから、花の便りを沢山頂きました。美濃国便りの中西達治さんからも、水仙、椿、そして桜と、上代から近代までの古典作品や、高木市之助や柳田国男の文章を引用して綺麗な写真を添えた「巣ごもり通信」が届いていたのですが、本ブログで紹介する前に季節が移ってしまいました。桜の便りには、「つれづれなるままに庭先の花の移ろいを届けてきたが、1年経ったのでひとまず結びとする」とありました。残念なので、ブログ開設をお勧めしておこうと思います。

東京は早足で春に突入、我が家では羊歯の葉も、石榴の若葉も開き、素馨花が香りを立て始めました。この時期には何を摘んできても、活け花になります。我が家の洗面台には今、はびこりすぎた淡紫のビオラアリッサムの小枝を、パテの小瓶に盛り合わせてあります。小さな花を活けるには、以前来ていたヘルパーさんが伊香保温泉のお土産に買ってきてくれた陶器製の花留め(剣山代わりに花器に沈め、孔に花を挿す)を、大変重宝しています。来週あたりは、勝手に生えてきた母子草(芽のうちはアリッサムにそっくりなので、勘違いして鉢に移植した)が黄金色の花を開くでしょうから、ウィスキーのミニボトルに挿してみよう、と狙っています。