後醍醐天皇の面影

君嶋亜紀さんの「後醍醐天皇の面影ー南北朝期の五撰集からー」(「大妻国文」52号)を読みました。最初に『風雅集』中の後醍醐天皇の「治まれる跡をぞしたふ」(1806)歌と光厳院の「治まらぬ世のための身ぞ」(1807)歌とを取り上げ、両者が並置されていること、またこの時期に集中して見られ、時代相を探るのに有効な歌語(中世歌語)が使われていることに注目しています。なるほどこれは、興味を惹かれる問題です。

建武の新政が挫折し、吉野山中に南朝を建てて京都を遠望しながら亡くなった後醍醐天皇が、『風雅集』を親撰した北朝光厳院と並置されていることに、どういう意味があるのか。また「治まらぬ世」「わが九重」「みづからぞ憂き」「天つ日嗣」「わが国」「よろづよの春」等々の政治性を帯びた中世歌語が、北朝の勅撰集『風雅集』『新千載集』『新拾遺集』『新後拾遺集』と、南朝の准勅撰集『新葉集』にどのように現れてくるかが考察されています。

『風雅集』には後醍醐天皇を追悼する意図もあったのではないか、二条派の手に成る『新千載集』には、かつての「治まれる跡」を思い、民を思う為政者後醍醐の面影が刻まれており、また後光厳天皇と後醍醐を並置することによって後光厳の正統性を顕示したのではないか、『新葉集』は、後醍醐を重視しながら南朝歌人の歌を採らなかった『新千載集』をつよく意識している、そして後醍醐という強烈な存在は南北朝期の勅撰集に重要な位置を占め続け、それに対峙する各立場を照らし出している、と結びます。

『風雅集』には平家時代への関心が見られ、また覚一本が成立した時期でもあり、よそごとでなく興味を以て読みました。『太平記』研究には資するところが多いでしょうが、『平家物語』研究ではどう参考にしたらいいのか。考え続けてみたいと思います。