秋草の園・その1

川越の友人から9連発メールが来ました。写真添付で、「秋の庭への御招待」というタイトルがついています。豊後国の別荘に出かける前に、数日かけて秋草の花が咲く庭の草むしりをしたそうです。

[川越は都内より一足早く秋が深まったようで、朝夕は10度前後まで下がりました。庭も急速に秋の気配が色濃くなり、秋の花が賑やかになりました。草むしりをする目の前で、どんどん秋の気配が進みます。そんな庭の花たちをご紹介します。この花たちが終わると後は、秋バラ少々と菊だけになるでしょう。]

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夏櫨と藤袴

藤袴は草全体が香りがよく、干して和紙に包み、箪笥へ入れておくと聞いたことがあります。何故かアサギマダラという色鮮やかな蝶が好むらしい。名前の由来は分かりませんが、和歌の世界では縫物との連想関係で詠まれ、漢字は蘭を宛てます。写真は未だ蕾ですが、花が咲くと、ぽっと薄紅が差します。意外なことに菊科の植物。純粋な自生種は、今ではレッドリストに載っているそうです。

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藤袴

[こちらは北米原産の菊科の植物ですが、花が藤袴に似ているところから園芸の世界では、紫藤袴と呼ばれています。夏から秋まで非常に長く咲き続けます。]とのこと。

9枚の写真には紫系の花が多く、初めて見る花もあったので、花や葉の形から、科名を推測しましたが、この花は実物を見たことがありません。アゲラタム(郭公薊)に似てるなあ、と調べたら、大郭公薊という和名があるらしい。

あるじが豊後の温泉掛け流しを楽しむ間、庭では紅葉が進み、花々は晩秋までひっそりと咲き続けるのでしょう。私たちが代わりに、写真で散策しましょう。

いずみ通信45

和泉書院の宣伝誌「いずみ通信」45号が来たので、関心のあるところを読んでみました。巻頭は吉田永弘さんの「「尊敬」形式の成立」。助動詞「(ら)る」が尊敬の意を持つようになった過程を「主催」という概念を導入して考察したもの。著書『転換する日本語文法』(本ブログ2017/10/4,2019/3/3でも紹介しました)のエッセンスです。

日比野浩信さんの「古筆の資料的価値と文化的価値」は、『古来風体抄』の新出断簡2葉を紹介していますが、古筆切の紹介は単独で扱わず、ツレの出るまで待つことにしているとか、古筆研究者は美術的価値をも、書家や古筆愛好家には文学としての内容にも注目して欲しいとの提言には共鳴しました。

稲田秀雄さんの「新出・宝暦名女川本(能研本)から見えること」は、山口に伝わる鷺流狂言の台本の一部が発見され、その内容には、近世狂言の中央と地方の関係を考える手がかりが多く含まれていることを報告したもの。坂口弘之さんの「満仲と仲光」は、金平浄瑠璃のヒーローである四天王の形成過程解明の難しさ、明暦万治頃の江戸では浄瑠璃本が大量に出版され、佐渡や東北の芸能とも交流したことを述べたもの。院生時代、『国書総目録』の補助アルバイトで書誌調査をした時、くたくたになった浄瑠璃本に出逢うと、扱いに困惑したことを思い出しました。

井上さやかさんの「さまざまな「持統天皇」像」と石尾和仁さんの「古墳の再利用と「将軍塚」」は、自分の専門から離れて面白く読めました。老後は消費者として古典を楽しみ、気ままな旅に明け暮れるはずでしたが・・・せめてこういう、こぢんまりしてはいるが想像力を広げてくれる文章によって、窓を開けておこうと思いました。

信濃便り・唐辛子篇

長野の友人から、写真添付のメールが来ました。定年後の弟さんが手伝っている農園では、唐辛子の収穫がはじまったそうです。

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信濃町の唐辛子

[3人で午前中いっぱい作業をして、収穫量は約20キロ。作業はまだまだ終わらない。長野市内の老舗唐辛子店に納めるのだそうです。]

収穫は手摘みなんですね。メールには、「去年の千曲川氾濫で被害を被った林檎畑にもたわわに実が生り、河川敷の畑には長芋の葉が青々と茂って(松代は長芋が名産)、泥を掻き出すだけでも大変だったろうに、と農家の苦労を思いました」ともありました。田舎で暮らすと、自然に第一次産業に詳しくなります。第一次産業では、人間は支配する側でなくお仕えする側。収穫の季節の喜びは一入でしょう。

善光寺門前町(地名は大門町というらしい)の七味唐辛子は有名です。高校の定時制に勤めていた時、校長から全日制の修学旅行のお土産、と届けられたことがありました。給食でどうぞ、という口上でしたが、小さな1缶の七味を、大勢が短い時間で掻き込む給食に、どうやって使えというのだろう、と思ったものでした。

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収穫期の唐辛子

イタリア料理店などではインテリア代わりに、赤い唐辛子を束ねて吊してあるのをよく見かけます。我が家でも白菜漬やピクルスを作っていた頃は買い求めましたが、もう何年もしまったまま。

ベランダでは今、観賞用唐辛子が花と実を同時につけています。売れ残りを値切って買ってきた1株も、葉の色を取り戻し、新しい実が黄色く色づき始めました。こういう時ってうれしい。よぼよぼだった苗が元気になると、情が移ります。観賞用の実は食べられませんが、干してハーブと共に瓶に詰め、衣装箪笥に入れて虫除けにします。

主権者のひとりから

日本学術会議会員候補者の政府による一部任命拒否に関して、「学問の自由」「言論の自由」を根拠に批判が始まったとき、一瞬、それじゃ駄目だ、と思いました。公務員の任命権を楯にしてくるだろう、という現政権の姿勢は当初から推測できたからです。おまけに10億のカネを出してる、という発言まで出て、かつて流行った「品格」という語が眼前にちらつきました。

報道によれば、長かった前政権時代からすでに、少なくとも2,3度は、こうなる兆候があった。権力への押し戻しは、絶えず、小さな芽を摘んでおくことが肝心です。当時の学術会議首脳部の甘さは、今後の戒めに記憶されるべきでしょう。

ごく短簡に言えば、今回の政府の措置は、人事権の濫用です。下世話に言えば、気に入らない者への「いやがらせ」にすぎず、政権にとって何の得にもならない。

何故なら、科学者の反対に遭って実現できないような政策は、そもそも間違っているか、効き目のないものだからです。科学者たちは、何の権力も金力も持っていない。できることは、客観的根拠に基づくか、過去の事例に照らした未来予測によって、政策を点検したり助言したりすることだけです。その中に、自分と異なる見解を持つ人を数人入れておくことは、権力者にとって、一種の安全保障でしょう。

そんなことも判らずに、「国民の権利」を代表して行使しているのか。10月2日付の学術会議要望書は極めて単純明快です。これに正面から回答しなさい。俯瞰的だの総合的だの、固有名詞を伴う拒否理由などは要りません。すべての前例踏襲をやめたら、明日から仕事はできないはず、変更に当たっては具体的な理由の説明が必要です。

一時の面子より後代の検証を考えて。総理の品格が問われているのだから。

コロナの街・part10

注文しておいた本を受け取りに、春日町まで出かけました。高額の本なので、銀行へ寄ってATMで現金を出し、用が済んで振り向こうとしたら、そのままふらーっと倒れてしまいました。周囲が吃驚して抱え起こしてくれたので、歩き出すことができましたが、自分でも何が起こったか呑み込めないほどでした。2晩続けて真夜中過ぎまで原稿を書いたので、寝不足だったのでしょうか。以前なら何でもないことなのに、体力が落ち、バランスがわるくなっていることを痛感しました。

年長の従兄・従姉たちに、コロナで体力を落とさないよう発破をかけたばかりでした。どうやら地下鉄に乗って、ユニクロに寄りました。入り口で中国人スタッフが検温、片言で案内する。支払いは自動、下着を買っても包んでくれません。仕方なくエコバッグを買って包んで貰いました。春日町は再開発が進んで圧迫感のあるビルが建ち並び、風景がまるで変わっていて、通りを1本間違え、蒟蒻閻魔まで歩いてしまいました。重い本を受け取り、ついでに小池真理子の短編を買って帰りました。金木犀の香る街は、ようやくマスクを掛け続けていられる気候になったようです。

高校教諭をしている教え子に訊くと、日常の煩わしさはあるが、部活が制限されたことで、これまで実現できなかった働き方改革ができ、週に1日は休めるようになった(これまでは休日は月1,2回しかなかった)、生徒も学業と部活のバランスが取れるようになった、とのこと。若さは常に前向きです。

さて、この重い本を使って、明日から次の仕事にかかります。30代から営々と関わってきた懸案を、もう延ばせない。どういう方法なら世に出せるか、図書館へ調べ物にも行かれない状況下、ともかくやってみます。

今昔物語集巻31

川上知里さんの「『今昔物語集』の仏法と王法―巻三十一「本朝付雑事」と王法仏法相依論―」(「国語と国文学」10月号)という論文を読みました。

中世には、大寺院勢力を中心とする「仏法」と、朝廷・世俗権門の権力による秩序「王法」とが助け合い、釣り合って国を保つのだという「王法仏法相依論」がしばしば主張されました。院政期に編纂された『今昔物語集』は、釈迦の誕生を世界の始まりとしていますが、王法仏法相依思想との関係については説が分かれています。

当時の日本人にとって世界は、天竺(印度)・震旦(中国大陸)・本朝(日本)のほぼ3国でした。『今昔物語集』の天竺部では仏法こそが国の根幹で、王法は対になっていない、震旦部では仏法が王法との衝突を乗り越え、国に浸透していく様が語られる。本朝部では、本朝全体を仏法で守られた理想的鎮護国家として捉え、伝法以後の社会の実態を描いている、しかし、と川上さんは言います。

その安定的鎮護国家観を動揺させ、中世の始動を伝えるのが巻31ではないか、というのが本論文の主旨です。これまで位置づけが困難だと見られてきた巻31の各話を読み解き、この巻の説話が本朝部で語られたような仏法の綻び、矛盾、腐敗、限界を浮き彫りにするものであることを論証します。そして王法による仏法の統治が仏法を崩壊させる危険を持っていることや、王法の限界をも描く、としています。世界を余さず表現したいという編者の欲求(それは作品成立の原動力であると共に、作品世界を揺るがす危険因子でもあった)がこのような巻を生み出したのだ、というのです。

巨大な『今昔物語集』の世界は、あざとい現代人の理論付けには制御されない、多くの謎や矛盾を抱えた宝の山。読みを深める試みがもっともっと出てきて欲しいものです。

アメリカの夢

アメリカ文学が専門の友人から、メールが来ました。米国大統領選挙候補者討論会を実況中継で見たそうです。

「October surpriseと言うそうですが、愕き二乗でした。討論会の衝撃と、当事者の、この時期のCOVID感染。討論会は、3人(Trump, Biden, Wallace)の発言が重なった上、日本語の通訳の声までまじり、聞き取りづらかったです。大将は相手をこき下ろす、発言の邪魔をする。最初のうちは落ち着いていたBidenも引きずられるように危ない言葉を口にしてしまう。敗者はアメリカ国民、とのコメントがありましたが、私はアメリカという国だと思いました。大統領のあのような行状を見る限り、アメリカが世界の指導的立場にあるなんて、冗談としか思えません。ならば、Trumpが大好きなフレーズ "Make A merica Great" とか "Make America Great Again"はピッタリなスローガンであるかも知れません。今はgreatではないということでしょうから。」

現大統領には、「大将」という日本語の人称がぴったりですね。私は今回の討論会を視ていて、彼の本職はプロレスラーなんだな、と思ってしまいました。

かつて日本がアメリカと戦って敗れたことすら知らない世代が出てきたそうですが、戦争体験世代は米国に対して、その価値観、文化伝統に独特の見方を持っていました。使い捨て、大量消費、技術信仰、その合理性、圧倒的なエネルギー、一方で伝統の浅さ、他者を軽く見る楽天性。その後、友人の世代から団塊の世代くらいまで、大いなる米国への憧れは強く、やがてベトナム戦争が、日本人の米国観にある変化をもたらしました。

米国に何度も留学し、彼国への憧憬と尊敬を抱いてきた友人の胸中は、察するに余りある、と思いました。大将、判ってますか?極東の、遠い小さな国から見つめる目を。