今昔物語集巻31

川上知里さんの「『今昔物語集』の仏法と王法―巻三十一「本朝付雑事」と王法仏法相依論―」(「国語と国文学」10月号)という論文を読みました。

中世には、大寺院勢力を中心とする「仏法」と、朝廷・世俗権門の権力による秩序「王法」とが助け合い、釣り合って国を保つのだという「王法仏法相依論」がしばしば主張されました。院政期に編纂された『今昔物語集』は、釈迦の誕生を世界の始まりとしていますが、王法仏法相依思想との関係については説が分かれています。

当時の日本人にとって世界は、天竺(印度)・震旦(中国大陸)・本朝(日本)のほぼ3国でした。『今昔物語集』の天竺部では仏法こそが国の根幹で、王法は対になっていない、震旦部では仏法が王法との衝突を乗り越え、国に浸透していく様が語られる。本朝部では、本朝全体を仏法で守られた理想的鎮護国家として捉え、伝法以後の社会の実態を描いている、しかし、と川上さんは言います。

その安定的鎮護国家観を動揺させ、中世の始動を伝えるのが巻31ではないか、というのが本論文の主旨です。これまで位置づけが困難だと見られてきた巻31の各話を読み解き、この巻の説話が本朝部で語られたような仏法の綻び、矛盾、腐敗、限界を浮き彫りにするものであることを論証します。そして王法による仏法の統治が仏法を崩壊させる危険を持っていることや、王法の限界をも描く、としています。世界を余さず表現したいという編者の欲求(それは作品成立の原動力であると共に、作品世界を揺るがす危険因子でもあった)がこのような巻を生み出したのだ、というのです。

巨大な『今昔物語集』の世界は、あざとい現代人の理論付けには制御されない、多くの謎や矛盾を抱えた宝の山。読みを深める試みがもっともっと出てきて欲しいものです。