源平の人々に出会う旅 第45回「修善寺・範頼最期」

 平家滅亡後、義経を都へ追い返した頼朝は、今度は義経を暗殺しようとします。義経は奥州へ逃亡しますが、伯父の行家、義憲と次々に親族を排除していきます。もう一人の弟範頼も例外ではありませんでした。蒲冠者範頼は、蒲御厨(静岡県)出身とされ、『平家物語』では、宇治川の戦い(1184年1月)で大手の大将軍として登場します。壇浦合戦まで戦っていますが、義経の陰に隠れてしまい、あまり語られなかった人物です。

【信功院跡】
 建久4年(1193年)5月28日、曾我兄弟の仇討によって頼朝訃報(誤報だった)が届いた際、北条政子を「範頼左テ候ヘバ御代ハ何事カ候ベキ」(私がおりますからご心配は要りません、の意。『保暦間記』)と慰めたことから謀反を疑われます。『吾妻鏡』では、範頼は、8月2日に起請文を記しますが、「源範頼」という署名に対し、頼朝から源姓を名乗るのは過分だと非難され、10日には頼朝暗殺未遂が発覚したとして、修善寺に幽閉となります。信功院は範頼が幽閉された場所とされます。

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源範頼の墓】
 『保暦間記』は、範頼は8月中に誅伐されたとしています。範頼の最期については『吾妻鏡』は何も記しておらず、詳細は不明です。

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源頼家の墓】
 修善寺幽閉といえば、もう一人、二代将軍源頼家がいます。父頼朝の跡を継いで征夷大将軍となりますが、北条氏(母方の一族)と比企氏(乳母や側室若狭局の一族。若狭と頼家の子に一幡がいる)との対立により、比企の乱(建仁3年(1203年))が起こります。比企氏の滅亡とともに、頼家は修善寺に幽閉され、この地で暗殺されます。

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〈交通〉
伊豆箱根鉄道修善寺駅
      (伊藤悦子)

自転車

昭和24年の初秋、私の一家は湘南海岸で暮らしていました。未だ戦争の跡がそこここにあって、東京は住宅難、母方の実家が持っていた別荘の離れに間借りしていたのです。 近所の子供たちと走り回って遊んでいた時、別荘の裏口には小さな石段があったのですが、ここに上ると海が見えるよ、と誰かが言ったので、どれ?と上って背伸びした途端、ぎくっと背中に激痛が走り、歩けなくなりました。

それが、母(亡くなって4年経っていました)から貰った結核菌による脊椎カリエスの発症でした。全身の指令を司る脊髄を保護する骨が溶けているから絶対安静、と言われて4年間仰臥で過ごし、コルセットを着ければ歩けるようになったものの跳躍は厳禁、爾来、スポーツとは縁がありません。長じてから、医者の言う通りにしていたら何もできない、と気づいて、少しずつ勝手に動きまわり、コルセットもやめたのは大学に入る頃でした。

水泳と自転車乗りだけは出来るようになりたい、とずっと思ってきました。水泳はあの夏、父が小さな浮輪に乗せて海へ入れてくれたきり。60代で水中ウォーキングをしてみましたが、面白いものではない。30代、名古屋に嫁いだ親友のご亭主が、近くの公園で自転車の乗り方を指導してくれたことがありましたが、自分が自転車を持っていないので練習はそれきりになりました。先日、そのご亭主から、あの時、私が手を放しても数メートルは進んでましたよ、と言われましたが後の祭り。荷籠のついた大人用三輪車なら乗れるかなあ、と思ったりもするのですが、コンビニの前などに駐めるのに、都心では邪魔になりそうです。

あの日、顔のあたりまで伸びたコスモスが一面にそよいでいて、1,2輪の花が開き始めていたのを、今でもはっきりと思い出します。海は見えなかったようです。

斑唐津

今年は木犀が遅いなと思っていたら、まるで暦が変わるのを待っていたかのように、街からかすかに甘い香りが流れてきました。さきの東京五輪でおもてなしのために、東京の街には金木犀があちこちに植え込まれたのです。すでに老木になったものもあり、この近辺でも大分伐られましたが、それでも東京の秋は木犀の香りです。

硝子の食器を片付けました。寝茣蓙、タオルケット、短パンをしまいました。東京は秋の足が速い。2,3日ごとに季節が進みます。

庭では夏の花が終わって、冬越しの草花までちょっと間が空くので、鶏頭か唐辛子の苗を探したのですが、今年は花屋の商売もあがったりだそうで、苗が店に出ません。いつもと違う花屋まで出かけたら、岩沙参の青と白の鉢が出してありました。売れ残りの黒紫色の唐辛子を、買って帰りました。

今日は仲秋の名月。グーグルのヘッダーにも月が出ている。天気予報では今日は終日雨ということだったので、昨晩、手酌で月見酒を呑みました(ツイッターによれば、そういう人は多かったらしい)。肴はセロリと玉葱のマリネ、鮪の刺身4片、牛と獅子唐の炒め物にブロッコリーの蒸し物、それに茄子の糠漬(里芋を買ってくればよかった、と後悔しましたが後の祭り。急な決断だったので、名月料理がないのはしかたがない)。盃は父のお気に入りだった斑唐津。以前は地味すぎる気がしましたが、この頃は、これを置くと膳の上が落ち着くように思えます。

もう一仕事、とPCを開けたら、山野草マニアの友人から、藍蓼の写真が届いていました。犬蓼(赤まんま。子供の頃は、花穂をしごいてままごとのお赤飯にしました)はそこら中で見かけますが、藍蓼の花は、そうか、これなのか、と眺めました。

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川越花便り・藍蓼篇

 

川越花便り・彼岸花篇

川越の友人から、写真つきのメールが来ました。「買い物の帰り道に、田圃の畔で彼岸花が咲いていました。今年は暑さが続いたので少し遅いようです」とのこと。

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川越の彼岸花

「珍しい白い花が混じっていました」ともありました。皇居のお濠の土手には彼岸花曼珠沙華)が密生していて、見事なのですが、ある年から一角に白い花が咲くようになりました。誰かが植えたのか、突然変異を起こしたのか分かりません。国会図書館三宅坂国立劇場へ行くついでには、お濠の眺めを楽しんだものですが、このところずっと都心へは出ていないので、今年はどうなっているでしょうか。

大学院を出てすぐ、京都の短大へ1年間、教養科目の文学を1コマ、教えに通ったことがありました。新幹線で関ヶ原を越え、遠くに琵琶湖の見える米原の辺りは、水田が広がります。ところどころ小さな溜池や稲架のための並木があり、秋には畦道を彼岸花が真っ赤に彩りました。草の緑、稲の黄、それを縁取る曼珠沙華。絵本のように美しい風景でした。やがて岐阜羽島にも米原にも工場が建ち、水田は潰されて行きましたが、今でもあの夢のような景色は瞼の裏に残っています。

彼岸花田圃の畦に多いのは、かつては凶作時に備えた救荒作物だったからだ、と聞いたことがあります。球根には毒があるのですが、飢饉の時は水に晒して毒を抜き、食用にしたのだとか。強烈な赤い色を嫌う人もあってか、昔は不吉な花と思われたようですが、最近は庭に植える人も多くなりました。殊に白花はリコリスと言って、園芸植物扱いされているようです。

以仁王に仕えた信連の墓を能登半島に訪ねた時、すでに花は終わり、葉叢が周囲を覆っていましたが、燃えるような意気地を見せて立ちはだかる武者の姿を、幻想しました。

コロナの街・part9

市民講座で教えている知人に尋ねたところ、講座を再開して以来、ずっと対面式授業、オンラインは達成感が今ひとつ、だそうで、メールには以下のようにありました。

[人数が少ないので、対面式でも悠々「社会的距離」が取れます。お仕事をお持ちの方達は電車通勤で慣れておいでで、準備万端で移動、その中のお1人は、帰りがけにちょっと1杯だけ、1人で、外側のカウンター席で楽しんでから帰られるそうです。

マスクをする場所をきちんと抑えてマメに手を洗えば、混雑と大騒ぎを避ければ、大丈夫なような気がします。きちんとしたお店なら消毒や距離も大丈夫そう、個人のお店は、店主の意識次第といったところです。]

所用があって、久しぶりに地下鉄に乗り、丸ノ内へ出かけました。銀行窓口の若い女性の対応がいつもと違う。何か機嫌を損ねるようなことでもしたっけ、と思うほどでした。ふと職安(今はハローワークという)の窓口を連想しました。まるでロボットのよう、ロボットなら腹も立ちませんが、傍にあったパンフレットを「これ貰っていきます」と言ったら、「どうぞー」と投げ出すように語尾が跳ね返りました。丸ノ内だから、こちらは上質の対応を予期していたのですが、間違いさえなければいい、と後は一切黙って署名しました。最後の「お手続きは以上です」という抑揚は全く事務的だったので、多分悪気はない。思うにマスクをしていなければ、営業用微笑を作って話すので、ああいう語調にはならないでしょう。

これもまた新しい日常。はやくマスクなしで対面できるようになって欲しい。ワクチンはともかく、治療薬と医療の受け入れ体制を保証してから、Go toでも何でもやってくれ、と思うのですが。

歳月

30代半ば頃、横浜の青葉台に住んでいました。近くに軍記物語研究を志す仲間が夫婦3組住んでいて、ちょっと離れて村上光徳さんがいました。いつしか、ここは軍記村、村長は村上さん、という冗談が真実になり、会場の確保も難しかった軍記物語談話会(現軍記・語り物研究会)の世話役を引き受けました。研究会の会場は高校の教室を借り、源平盛衰記の校訂本文と索引作成を、その中のメンバー3人で始める心算でした。

しかし、それぞれに人生の登山口で精一杯、子育てや出世の足がかりに必死になって他人の価値観に気を配る余裕がなく、私自身は源平盛衰記の本文公刊事業を貰い受けて、都内に引っ越しました。村上さんも亡くなり、3組の夫婦はみな伴侶の片方を見送り、私も地方勤務になって、いつの間にか足が遠のきました。

その中の1人から電話があって、中国茶を土産に買ってきたまま1年半経ってしまった、と言う。我が家には、区から喜寿祝に貰った甘いものがあるから来ないか、と言ったら、今日やってきました。この間墓参や葬儀で一緒になったことはありましたが、ほぼ40年ぶりです。かつては正月4日に、必ず我が家で家族連れの宴会をしていました。

よもやま5時間お喋りしました。逝った人たちの話、身内を看取った話、家族の変化、教育界の様変わり・・・彼は愛妻を亡くしてから家族を一身に背負い、躁鬱病を発症。今は子供たちも成長し、自由の身です。具合のいい時には中国旅行をして、現地の人と意気投合し、いつか中国語通訳の世話役をするのが夢だそうです。

振り返れば迅速に過ぎた歳月、しかしその間に翻弄されつつやり過ごした幾多の危機や転換点を振り返っても、もうすべては見えません。歳月が忘却を以て、人間を膨大な記憶の奔流から掬い上げてくれるのを、有難いと思うべきなのでしょうね。

体験的電子事情・研究会篇

母校の中世文学研究会がオンラインで開かれました。今回はzoom経由で、発表資料は前日に配信されました。野本瑠美さんの「崇徳院の死と俊成、西行」という発表です。野本さんは島根からの参加、全国から40名の参加申し込みがあったとのこと。ともかく研究会の場には入ったのですが、発表が始まったらカメラを消して下さいと言われたので、ビデオのアイコンをクリックした途端に、zoomの空画面が覆い被さり、えっ、どうなったの?!しかし音声が聞こえればいいや、と発表を聞いている内に思いついて、画面を縮めてみたら、隠れていた研究会会場が現れました。

保元の乱に敗れて讃岐で亡くなった崇徳院の遺詠(長歌反歌1首)が俊成に届けられた後、俊成、寂然、西行がどのような行動を取ったか、それは何故かについて考察する発表でした(ブラッシュアップした発表を10月25日の中世文学会で聞くことができます)。『無常の鐘声』(花鳥社)に「九条兼実崇徳院・高倉院・安徳天皇」を執筆した谷知子さんも参加、当時の社会状況との関係など異なる視点からの議論も行われました。

討論終了後の雑談が有益でした。全国の大学の状況、殊にコロナ下での話題がやりとりされました。東大は後期も遠隔授業、国文は演習もオンラインだそうで、書誌学の実習1日のみ対面授業だった由(今年サバティカルだった年配の教授が、zoomに不慣れなことを露呈しながら司会をしたのがご愛敬でした)。留学生が来日できないこと、書道がウリだった大学では実習授業に困ったこと、TVゲーム規制条例を作った県では、30分ごとにオンラインが切れてしまう(県がそう設定している)のでやりにくかったこと、他県へ出てはいけないと言われている県もあること、すでに入試をオンラインで実施した大学院もあること。みんな試行錯誤の毎日です。