描かれた語り物

小林健二編『絵解く 戦国の芸能と絵画ー描かれた語り物の世界』(三弥井書店)という本が出ました。編者の小林さんが2017~19年度に主宰した、科研費による共同研究「語り物を題材とした絵巻・絵本の国際的調査研究」の成果報告書を兼ねた本です。幸若や古浄瑠璃、それに平家物語などの軍記物語を題材とした絵画資料を、国文学と美術史の両面から調査・研究した論考11本と、「幸若舞曲の絵入り本一覧」が収載されています。小林さんは幸若・能などの芸能と、近年盛んになってきた絵画資料の両方に詳しく、充実した共同研究だったようです。

描かれた語り物の世界、平家物語図扇面画帖を読む、幸若舞曲・古浄瑠璃を描く、絵師と筆者、という4部構成になっていて、絵画資料のカラー写真もたっぷり入っており、楽しめます。現役時代に源平盛衰記の共同研究や、図書館の古典籍解題作成に関わって、さまざまな絵画資料に触れたことを思い出しながら読みました。「堀川夜討絵詞絵巻」や「むらまつ」もその1つです。

小林さんの「『源義経一代図屏風』を読む」は、説話文学会2018/6のシンポジウム基調報告(「説話文学研究」54所載)を補充したもの。最近入手した屏風の43段の絵を考察し、室町期には、源義経を扱った文芸に『義経記』とは異なる判官物の流れがあったことを論じています。『義経記』が判官物の主流にはならなかったことは、ちょっと意外かもしれません。軍記物語のあり方が、時代によって異なることに注目されます。

私としては、海の見える杜美術館蔵の平家物語図扇面を取り上げた、鈴木彰さんと瀧澤彩さんの論文を興味深く読みました。扇面という空間がなぜ選ばれたのか、デザイン面からの考察も欲しいなあと思いました。

信濃便り・母の日篇

長野の友人から、お母さんの四十九日法要と納骨を済ませたとのメールが来ました。曾孫も含めて一族でお参りした後、マスク姿で集合写真を撮り、お供えした柏餅(長野の節句は旧暦)を分け合って食べたとのことです。

長野はいま新緑の中。玄関先の小庭には苧環が咲いているそうです。東京では紫蘭が盛りですが、彼地ではこれかららしい。よく見ると菫も咲いています。この窓の奥に、お母さんの部屋がありました。

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庭先の苧環

[10日ほど前に母の夢を見ました。私が授業をしていると、母がやってきて、「ちょっと出かけてくるから」と言うのです。「え?どこ?」と聞くまでもなく、夢は終わってしまいました。ふくよかな顔で、背筋もピンと伸びた、若いころの母でした。忘れないように起床直後、妹に話すと、「よかった!おばあちゃんは元気なんだ」と言うので、私も「そうなのよ。おばあちゃんは元気だったよ」と答えました。妙なやり取りでしたが、2人ともほっとしました。]

笑い話のようですが、家族を見送った後はほんとにこういう気持ちです。どこかで元気にやってるはず、会えないけどー私もそうでした。フレイルの数値ですべてを割り切れる人から、終末期の看取りを一律に決められたくない。

今日は母の日。母はいなくても、母です。

東洋史の定年後

この春、定年になった東洋史の平勢隆郎さんから、近況報告のメールが来ました。

[運動不足なので、食事の量を減らしました。この2年ほど、論文や資料をPDFにする整理が追いつかなかったのですが、その作業に手を出しました。複製も作っていて、整理ファイル数は25000ほどになることがわかりました。1600ほど未整理分があります。頂いたままだった論文はPDFにしましたので、ファイル名をキーワードで検索できます。整理するだけでこんなに大変なのか、とわかり、つきあいと研究のせめぎあいはすごいもんだと思ってます。でも、そのつきあいが自分の研究にかなり役立ったというのが、これまでのわが人生なんですよね。整理しながら、つくづく人にめぐまれてきたな、と思ってます。
 買ったまま埋もれていた中国の雑誌(かなりしぼって残しました)も、そろって自宅の書架に配列できました。](平勢隆郎)

2万5千!平勢さんは昔から、こういうコスパを無視した仕事をやる人でした。東大の後輩、鳥取在勤時代の同僚です。これまで様々な専門の同僚に刺激を受けたと言うあたりに、成熟を感じました。以下に、彼の大著の紹介があります。

「仁」の原義と古代の数理  https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/E_00223.html 

 英文サイトもあるそうですが、[最初から日本語なしで原稿を担当者に提示したところ、「ここがわからない」と言われた箇所もあったのですが、「わからなくても英語がまちがってなければいいです」と伝えました。わかりやすくすると、往々にして「意味ちがっちゃうんだけど」ということになります。今後もずっと、そういう関係が続くんでしょうね。以上、単なるぐちです。]相変わらず、マイペースの人です。

コロナの街・part3

差出人厚労省医政局経済課のマスク2枚が、昨日、我が家のポストに投函されました。いわゆるアベノマスクです。ヘルパーさんたちは、薄いガーゼなのでほぐして手作りマスクに重ねて使うそうです。一時は手に入らなかった紙類の衛生用品はもう、店頭に山積みになりました。オイルショックの時と同様、こういう際に、店の本性が分かります。角の薬局は、日頃¥480のトイレットペーパーを¥790で売りました。雑貨屋は使い捨てマスクを1枚¥130で出し、その後¥120に下げました。何故かスープ屋が、マスク1箱¥3500で呼び売りしていたのは一昨日でした。

我が家では心配してくれた方々から1枚、2枚とマスクを頂戴し、今は使い捨てマスクが何回洗って使えるか、実験中です。まず手を洗い、掌に石鹸をつけてマスクの両面を撫でるように洗います。濯ぎに消毒用アルコール(冷蔵庫の中を拭くために買ってあったのですが、使用期限を見たら2012年。気休めに使っています)を入れ、揉まずに押し洗いし、最後にプリーツを広げるようにして上下から水を流し、縦に畳んで水を切ります。

感染と経済の2つの語だけで政策が語られていますが、我々の「生活」はその間にあり、そこを護るのが政治ではないでしょうか。感染と経済のどちらをとるかでなく、それに挟まれた民の暮らしをどう支えるか、から発想して欲しい。「新しい生活様式」などというキラキラしたキャッチフレーズ(せめて用語は「コロナルール」くらいにしておけ)で目先をごまかすやり口は、言葉を扱う専門家としては聞くに耐えないのです。

さしあたって、ふつうの値でふつうにマスクと消毒液が買えるなら、我が家ではコロナ予防のルールに合わせて行動します、指図されなくても。生活様式なんて、家風と同じで、行政が決めるものではない。

大学院1年

大学院へ入学したのは1968年春でした。会社勤めを断念して入ったので、退路はないと思っていました。平家物語を研究するには仏教、歴史、漢文学も必要だと考えて、他専攻の授業にも潜り込みました。辻善之助の日本仏教史、紅顔の助教授だった石井進の中世日本史、吉田精一の明治文学演習・・・仏教学の演習に出てみたら、現役の僧侶たちが宗派ごとの僧衣で出席(宗論です)、1回で尻尾を巻いて退散しました。敦煌変文の授業は、講義科目だったのに毎週配られる変文を読まされ、私には大漢和辞典を引くしか予習の手段がなく(でも中文の院生も同じだった)、苦しい思いをしました(国語学の上級生が、ノート取っといてね、と言いつけて休むのには閉口しました)。

しかし医学部から始まった大学紛争が燃え広がり、3ヶ月も経たずにすべて休講になりました。しだいに大ごとになり、暴力的になって、研究室も図書館も封鎖され、授業に出るのは命がけでした(この間のことは、『文学研究の窓をあける』〈笠間書院 2018〉に書いておきました。当初は大義のあった大学闘争でしたが、大勢が抱きついてくるにつれ無理が生じ、変質していったのです)。学外で研究会をしようとしても、学生がいると分かると断られました。封鎖は全国の大学に広がり、ちょうど現在のような状況でした。やむなく全国を歩いて長門本書誌調査を始めたのですが、下関まで来て、明日は関門海峡を渡るという時に九大から電報が届き、引き返したことは忘れられません。

修士課程に3年在籍しましたが、研究とはどうやればいいのかも分からず、やみくもな書誌調査で採ったデータは寝かせたまま、整理できたのは30年以上経ってからでした。

いま立ち往生している大学院1年生の皆さんーやみくもでも、自分なりに今やっておくことは無駄にはなりません。文系の給付型奨学金(公益信託松尾金藏記念奨学基金)は例年通りの応募者があり、選考準備が始まりました。審査委員の先生方も事務局の銀行も、例年通りの支給(夏休み前に決定、給付)を可能にしようと知恵を絞っています。

南北朝期の元号

君嶋亜紀さん「南北朝期の勅撰集と元号」(「文学・語学」227号)と「『新古今集』春部の柳歌ー崇徳院「いなむしろ」詠の周辺ー」(「大妻国文」51号)を読みました。前者は、南北両朝が、それぞれ自らの正統性を示すべく元号を制定した時代の勅撰集及び『新葉集』に、その元号がどのように扱われているかを検討したもの。新政と争乱の治世であった建武という元号について、『新千載集』には後醍醐天皇への懐古と鎮魂の意図が見え、敗者の歌を多く載せる『玉葉集』を継ぐ『風雅集』と共に、勅撰集の枠組の変質を感じさせるとしています。元号によって時代を象徴させる感覚に関しては、「治承物語」の書名や、芸能の世界で屋島合戦が「元暦元年」とされることなど、思い当たることが多く、私も今後考えてみたいと思いました。

後者は、『新古今集』71番歌の「いなむしろ」という歌語の考察から、『新古今集』春部の構成を論じ、68~75の柳詠には後鳥羽院の御代への祝意が籠められているとするもの。1つの語義から拡散していくように見える論が、『新古今集』の意図に収斂し、和歌の解釈だけに留まらず、軍記物語研究にも波及する可能性を感じました。

「大妻国文」本号には、小井土守敏さんの「〈資料紹介〉大妻女子大学蔵『平治物語絵巻 信西巻』」や、桜井宏徳さんの「歴史叙述と仮名表記ー『愚管抄』から『栄花物語』を考えるための序章ー」も載っています。後者は、年代的には六国史を継ぐとされている『栄花物語』に、果たして平仮名で歴史を語る意図があったのかという問題意識から出発して、片仮名交じりで書かれた『愚管抄』を通して、日本の歴史叙述の文体を考えようとする意欲作。今まで軍記物語ばかりで手一杯だったけど、私ももっと、いろいろな文学をとりあげたかったなあ、という思いに駆られました。

不登校

生涯で学校に行かなかった時期が2度、あります。1度は大学院修士課程。大学紛争のおかげで授業はおろか、研究室も図書館も封鎖、ちょうど現在のような状態でした。その話は別に書くとして、もう1度は小学校時代。入学年齢の前年の秋、脊椎カリエスで絶対安静になり、1年遅れて入学、祖母に付き添って貰って登校しましたが、再発し、1年次に数日、4年次に数ヶ月、5年の後半から約1年半通っただけでした。

それでも何とかやって来られたのは、親たちが本好きで、家に大量の本があり、しかも当時は子供向けの本が少なかったので早くから大人の本を読み、また多分にラジオ放送から知識を得たからでしょう。牧野植物図鑑を端から端まで読み、植物の分類体系を覚えました。母方の伯母が贈ってくれた子供用の1冊本百科事典は、天文学の知識から短歌まで、あらゆる分野のことが盛り込まれていました。算数は主としてドリルを解きましたが、時々家庭訪問してくれる担任から、九九は教えておくようにと親が言われていました(実際、後年、定時制高校の教諭になって、学力のつまずき初めは、九九を覚え損ねた場合が多い、と知りました)。

習わずに後で困ったことは、楽譜の読み方と包丁の使い方でした。習っておいてよかったのは、漢字の筆順と算盤です。いま思えば父は、当時としてはすぐれた子供向けの科学書や文学書を探して買ってきてくれていたのですが、中には好きになれないものもありました(大島正満の『動物物語』は愛読しましたが、清水崑の『聊斎志異』はなじめませんでした)。いま学校閉鎖が続いて、焦りを感じている方も多いと思いますが、小学校の段階では、基本的な人間性と好奇心だけ養われていれば、長い人生の中で、不登校や学校閉鎖の期間は問題にならない、というのが私のひそかな確信です。