大学院1年

大学院へ入学したのは1968年春でした。会社勤めを断念して入ったので、退路はないと思っていました。平家物語を研究するには仏教、歴史、漢文学も必要だと考えて、他専攻の授業にも潜り込みました。辻善之助の日本仏教史、紅顔の助教授だった石井進の中世日本史、吉田精一の明治文学演習・・・仏教学の演習に出てみたら、現役の僧侶たちが宗派ごとの僧衣で出席(宗論です)、1回で尻尾を巻いて退散しました。敦煌変文の授業は、講義科目だったのに毎週配られる変文を読まされ、私には大漢和辞典を引くしか予習の手段がなく(でも中文の院生も同じだった)、苦しい思いをしました(国語学の上級生が、ノート取っといてね、と言いつけて休むのには閉口しました)。

しかし医学部から始まった大学紛争が燃え広がり、3ヶ月も経たずにすべて休講になりました。しだいに大ごとになり、暴力的になって、研究室も図書館も封鎖され、授業に出るのは命がけでした(この間のことは、『文学研究の窓をあける』〈笠間書院 2018〉に書いておきました。当初は大義のあった大学闘争でしたが、大勢が抱きついてくるにつれ無理が生じ、変質していったのです)。学外で研究会をしようとしても、学生がいると分かると断られました。封鎖は全国の大学に広がり、ちょうど現在のような状況でした。やむなく全国を歩いて長門本書誌調査を始めたのですが、下関まで来て、明日は関門海峡を渡るという時に九大から電報が届き、引き返したことは忘れられません。

修士課程に3年在籍しましたが、研究とはどうやればいいのかも分からず、やみくもな書誌調査で採ったデータは寝かせたまま、整理できたのは30年以上経ってからでした。

いま立ち往生している大学院1年生の皆さんーやみくもでも、自分なりに今やっておくことは無駄にはなりません。文系の給付型奨学金(公益信託松尾金藏記念奨学基金)は例年通りの応募者があり、選考準備が始まりました。審査委員の先生方も事務局の銀行も、例年通りの支給(夏休み前に決定、給付)を可能にしようと知恵を絞っています。