源平の人々に出会う旅 第40回「那須・扇の的」

 元暦2年(1185)2月、義経は少数の兵で阿波国勝浦に上陸し、讃岐国屋島にある平家の館を襲撃します。海上へ逃れた平家との、陸と海との戦いとなり、源氏方の佐藤嗣信が能登守教経に射殺されてしまいます。

那須温泉神社】
 日が傾くと、平家船が陸に近づき、船端に扇を立てたます。扇を射るよう義経に命じられた那須与一は弓をつがえ「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現宇都宮、那須の湯泉大明神、願くはあの扇の真ん中射させてたばせ給へ」と祈ると、風が弱まり、矢は扇の要に命中しました。

f:id:mamedlit:20200504111405j:plain

 

那須与一腰掛松】
 覚一本『平家物語』は平家が扇を立てた理由は記していませんが、『源平盛衰記』は軍(いくさ)占いのためとし、高倉院が厳島御幸の際に奉納した扇としています。後日談として、那須町には、与一が那須湯泉大明神に御礼参りに行った際に腰掛けたという腰掛松伝説が残っています。

f:id:mamedlit:20200504111449j:plain

 

【黒磯巻狩鍋】
 那須といえば、源実朝の「武士の矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」(金槐集)が思い浮かびますが、頼朝の那須の巻狩も有名です。郷土食の巻狩鍋は、その時に捕獲した熊・鹿・鴨などを大きな鍋で煮込んで食す様子をイメージして、現代風にアレンジされたものです。毎年10月に行われる「巻狩まつり」では、巨大な鍋が使用されます。

f:id:mamedlit:20200504111538j:plain

 

〈交通〉
 JR黒磯駅よりバス
      (伊藤悦子)

読み直す憲法2020

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持 しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないので あつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を 維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを 誓ふ。

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常 に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第十五条  1 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。      2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

第九十七条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 (日本国憲法より抜粋:mamedlit)

以前と以後

コロナで振り回されているのに悲鳴をあまり上げていない、いや上げる暇も無いのが教育現場でしょう。高等教育(大学)、中高、小学校ではそれぞれ事情が違うでしょうが、特に大学ではコロナ以前、以後では授業のあり方そのものが変わってしまうのではないでしょうか。今年の新学期、大学教員は授業内容以外のことで前代未聞の忙しさだった(中には楽しみながらこなした人も?)ようで、それは今も続いているらしい。

いわゆる非対面授業、オンライン授業は、大学による組織的サポートの質も異なり、対象となる学生の状況も異なる中、さまざまな水準で出発しているようです。教員側から、また受講する学生側からの報告やぼやきが、ネット上に散乱しています。もう自分でやることはありませんが、それらの中から、参考になりそうなもの(未知の略称や片仮名語が頻出しますが、飛ばし読みする)を拾い集めて読んでいます。

かつて放送大学の授業(ラジオ)を引き受けた時、困ったのは、相手の知識水準や学習動機が判らず、何より反応が見えないことでした。慣れてくると、ちょっぴり演技をつけた朗読のようなペースでやりましたが、最後まで、反応なしの独り相撲は辛く感じました。

学会も動画中継で、となっていくかもしれません。相手の表情や会場の雰囲気を感じながら討論する習慣は喪われていくのでしょうか。コロナ以前と以後、何が変わるのか、得るものと喪うものは何か、補えるとすれば何に着目すべきか、注意深く見守っていきたいと思います。

ただ学校生活は授業だけではない。図書館や食堂や校庭で過ごす時間、友人や上級生たちと同じ場所にいること、その意味は後年になって解ってくるものです。はやく構内へ戻れますように。

信濃便り・芽吹き篇

長野の友人からメールが来ました。階段から落ちて骨折し、幸い、今はリハビリと日光浴を兼ねて、近所を散歩しているそうです。

佐久間象山の号の由来と言われる山が、近くにあります。号には二通りの読み方(
「ぞうざん」、「しょうざん」)がありますが、山の名前は「ぞうざん」。山桜の白い
花が木々の芽吹きに混じるようにして咲きます。そう言えば、地元に数年前にできた喫
茶店の名前が「エレファントマウンテン」。広いキッズスペースがあり、ママ友で結構
繁盛している。年中かき氷が食べられるというのが、その店の「売り」だそうです。]

f:id:mamedlit:20200501130443j:plain

みすずかる信濃

友人は最近大事な人を看取ったばかりで、歩きながら、さまざま思い出すことがあるでしょう。私も家族を見送った後しばらくは、街角ごとに思い出すことばかりでした。

新幹線ががら空きだと聞けば、この季節、ふらりと旅に出たくなります。東京は薔薇の時季ですが、給水公苑も古河庭園も閉鎖中。夕方、大塚駅前まで行ってみました。今年は未だ早いらしく、1輪だけ咲いた花の前で、老人がスケッチをしていました。

裏通りのスーパーへ入って、野菜と殻つきの茹で蝦蛄を買いました。惣菜屋は5時過ぎだというのに、あらかた売り切れ。その代わり居酒屋が店先に弁当を出しています。駅ビルの上にはちょっと美味しい肴を出す店があって、例年なら銚子1本呑んで帰るところなのですが、今日は真っ直ぐ帰宅。BSーTVで信濃路の鉄道旅を視ながら、いつもとは違う旬の食材を並べました。新じゃがのフライ、イタリアンセルリのサラダ、茄子の天麩羅、マグロの刺身と蝦蛄。名古屋ではよく殻つき蝦蛄を買ったものでしたが、もう剥き方を忘れていて、指は傷だらけになりました。

路傍の花

繁華街やターミナル周辺は人が減っても、街中は夫婦連れやジョギング、犬の散歩がうろうろ。なるべく人を避けて裏通りを歩くと、見慣れない車が強引に入ってきて、見ていると料理の宅配だったりする。コロナの街です。

このところ、裏通りの庭付きの家がどんどん切り売りされて、四角な新築の家が軒を接して建ちました。建ってすぐは見知らぬ植木が数本植え込まれて、通りがかりの季節ごとの楽しみがなくなったのですが、それらの玄関先も、数年経ってみると、限られた空間に何かしら季節の彩りが点じられ、新たにこの時期はあそこ、翌月はここ、というポイントが出来てきました。1株だけ石楠花の目立つ家、苺をオーバープラント代わりにした家、八重桜をバルコニーで囲んだ家、藤を物干し台に絡ませた家など各戸の工夫が楽しめます。

本郷通りは東大の楠若葉が終わって、これから椎の花の季節。今年は、藤棚や楠の木陰の読書は出来ませんでしたが、学生時代には眺める余裕のなかった楠若葉の美しさは堪能できました。用足しのために歩きながら、路傍の雑草と見えるものも、かつては園芸品種だった草花が逃げ出した(拡散した)例が多く、時代の推移に気づきます。繁殖力が強くて手を焼くハルジョオンも、元来庭園用に輸入されたと知って、吃驚しました。蔓日々草、花華鬘、雛罌粟、松葉蘭、菫、花酢漿草、庭石菖、夕化粧・・・そういう眼で見ると、いま垣根の裾から道路の縁へ進出中の花も、何種類かあります。

雑草の花を摘んで活けるのをお勧めする新聞記事を見ました。野生の花は、摘むと見る見る手の中で萎れていきます。摘むなら帰宅直前に。蒲公英などの菊科や花カタバミなどは、直射日光の下でしか開きません。摘んだ生命を無駄にしないように、よく観察してからにしてください。

長門本平家物語研究史

浜畑圭吾さんの「長門本平家物語』研究小史ーその成立をめぐってー」(花鳥社公式サイトhttps://kachosha.com/gunki2020042801/)を読みました。長門本は壇ノ浦の赤間神宮に奉納され(旧国宝指定)、近世初期から知識人たちの注目を集めてきた『平家物語』です。さきの大戦で火災に遭い、焼損が著しいのですが、幸い近世の写本が多く残っています。但し本文としては旧国宝本以前には遡れず、つまり現存する長門本には別本はない、ということになります。

長いこと、明治年間の校訂本である国書刊行会翻刻でしか読めなかったのですが、麻原美子さんが国会図書館蔵貴重書本を底本として、3本と対校し、略註を付したテキスト(勉誠出版 1999。普及版は2006)、さらに延慶本との対照本(勉誠出版 2011)を出してから、本文は読みやすくなりましたが、研究史と呼べるほどのまとまったものは出ていませんでした。この度、軍記物語講座第2巻に長門本の成立と伝来の環境について執筆した浜畑さんが、自身の論考の前提としてまとめた研究史です。

研究史の客観性、中立性の保証は存外難しいものなんだなあ、というのが一読後の感想でした。振り返れば自分と対象との間に横たわる歳月の帳に彩られて、その間に流れた時間が見えなくなる、そのこと自体の認識も難しい。浜畑さんは、古態本として注目される延慶本への関心が高まったことと長門本の研究とを結びつけていますが、近世から昭和初期までは、むしろ長門本の方が『平家物語』の異本としての注目度は高かったと思います。また長門本の管理者考がしきりに行われたのは、説話研究の動向とも関係があります。

もっと早く、同時代史としての研究史が書かれなければいけなかったのでしょう。気づかせてくれた浜畑さんに感謝します。

喜寿

f:id:mamedlit:20200428115544j:plain

4月の盛花

喜寿のお祝いに大きな盛花を頂きました。薔薇、ライラック、カフェラテという名のダリヤ、八重咲きのトルコ桔梗、レースフラワー、アルストロメリアなどなど。連日、コロナで蟄居を強いられていたのに、居間の雰囲気が一遍に変わりました。

思えば還暦の時に、紅薔薇の鉢植えを贈ってくれた従妹は、癌であっという間に亡くなりました。その薔薇は今年も蕾をつけていますが、当時は花弁がすこし反り返る薔薇が流行種でした。最近は、反らずに花弁がぎゅっと詰まった薔薇が流行のようです。

薔薇を贈ってくれた彼女は、今は別世界の人。身辺を去って行く人たち(必ずしも死別ではなく)が次第に増えますが、こうして、もう少し一緒に仕事をしようよ、と言ってくださる人たちがいる間は、緊張感を失わずに勉強を続けたいと思います。

誕生日の朝、ウィキペディアをチェックしたら、すでに年齢は77歳になっていました。業績の項はずっと更新されず古いままなのですが。