資本運用立国

資本運用立国ーこんな語が似合う国だったのでしょうか、我が日本は。やりたい人、やれる才能のある人が投資で稼ぐのは構わないと思いますが、政府が国民に、足りない資金は投資で作れ、という前提でライフプランを立てるよう勧めることには大きな抵抗があります。自分の手足や頭を使う仕事の人たちが過半数を占め、その合間に商才や機敏さで価値を得る人たちもいる、という構造が望ましい社会だと考えるのは、もはや古い?

連日報道される与党政治家の非課税所得の額の大きさ。総理の国会答弁の空虚さ(言語を扱う人間としては、よくもまあこんなに大量の、実質的効力のない作文ができるものだと妙な感心をしています)。この騒動の初期、民放のニュース番組を視ていたら、最大派閥の責任者が記者会見で、金は全部使った、支持者や記者たちと政策の話をする時の飲食代だと堂々発言していましたが、それらも「政治活動の自由」の中に入るのでしょうか。

紙幣をじゃんじゃん刷って、と言って歩いた政治家と、それを支えた中央銀行総裁、その周囲に群がった人たちが、日本人の金銭感覚を狂わせてしまったのか。いや、さらにその周囲には、それを見上げて(憧れたり、おこぼれに与かったりして)いた多数の普通人がいる。SDGsとやらも、突き詰めれば一般人がどれだけつましく、分相応の暮らしを続けていくかという問題になるのです。

30年動かなかった賃上げを、という労使双方の掛け声の下、大手企業やいま売れ筋の業界関係者は収入増が実現しそうで、めでたいことですが、結局、貧富の差が激しくなるのではないか、という不安が拭えません。非正規雇用が多く、エッセンシャルワーカーの賃金は低いとなると、生活苦が国土をじわじわと浸していくことにならないか。自らの人生(労働とその成果)を運用して迎える老後に、悔いずに済む国であって欲しい。