羅馬は

先週の中世文学会シンポジウム「デジタル時代の本文校合」を聴きながら、往時茫々の感慨に囚われたのは、私だけではなかったようです。羅馬は一日にして成らず。

国文学研究資料館は、発足当初からコンピューター利用と古典籍DB作り(『国書総目録』の補訂・拡充)を掲げていたので、何かの委員会で、デジタルで筆者同定はできないかと訊いたところ、幹部からにべもなく、できません、と答えられたことを思い出します。今や崩し字判読アプリが出回る時代。資料館は大学教員に協力(じつは奉仕に近い)を求める一方、こちらが必要としているニーズはなかなか取り上げてくれない所(必要だという文書を出せ、と言われたこともありましたっけ)と、ある時期から諦めました。

シンポの最後に久保木秀夫さんが、影印かデジタル画像かという二者択一でなく、例えば影印本は複数の本文を並べて比較する時に便利だ、という発言をしましたが、12年前、そっくり同じ趣旨の啖呵を切ったことを思い出し、苦笑しました。定年目前で、勤務校の大学院開設60周年記念事業が降ってきた時のこと。準備期間が殆ど無く、大学所蔵資料を影印で出すという内容まで決まって降りてきたので、会議では猛反発が起こり、今どき影印なんか、と公然と嘲笑した人もいました。私はここで争うよりも雪崩の来る前にエッジを駆け抜けた方がよい、と判断したので、デジタル時代にも精細な影印の意義は喪われてはいない、と演説をぶちました。その足で図書館へ行き、重文資料影印化の許可願を出し、出来たのが國學院大學貴重書影印叢書の第1・2巻(朝倉書店)です。

国書総目録』しか手がかりがなかった時代に、『曽我物語』の悉皆書誌調査を思い立ち、どうにかやり終えたけれど、作品構造の違いによる諸本論は、DBの進化によってできるわけではない、と名古屋の村上學さんから手紙が来ました。