回想的長門本平家物語研究史(7)

昭和50年代に入ると、影印本が続々出されるようになり、主要な平家物語諸本が次々に影印化されました。渥美かをる氏も源平盛衰記2種と、内閣文庫蔵長門本平家物語(寛保2年源台近識語)とを影印出版しています。源平盛衰記慶長古活字版と蓬左文庫蔵写本影印化が先見の明であることは、別途に述べる機会もあろうかと思います。

長門本の場合、赤間神宮に奉納された旧国宝本(阿弥陀寺本)が戦災で焼損し、全巻通読は不可能になったため、その原形により近い伝本を求めようとし、一方では唯一の翻刻である校訂過程の分からない国書刊行会本を基準とせざるを得ませんでした。渥美かをる氏は寛保2年の識語と赤間神宮文書52号とを結びつけ、阿弥陀寺本を直接借り受けて、忠実に写した本であると判断したのですが、実は文字遣いなどの細部は旧国宝本と一致せず、52号文書との関係も後に村上光徳さんによって否定されました。

実際に伝本を見て歩くと、奥書・識語のあるものは比較的書写が新しく、厳密な複本を作ろうとするよりも自分の必要があって写したと思われることが多いのです。藩などが公的に作成した写本と、当時の知識人が何らかの興味、必要があって写した本とでは、明らかに雰囲気が違う。装幀、書体、紙質など初見の印象がすでに異なることが多い。

しかし書誌学素人同然の私は、そのことを揚言するすべを知りませんでした。阿弥陀寺本により近い本を、という探求はさらに、石田拓也さんによって伊藤家本の影印、森岡常夫氏解題による岡山大学蔵池田文庫本翻刻(巻一~八は旧国宝本の臨模)の出版となりました。旧国宝本が長門本最初の原本でないことは既知ですが、それ以前に遡れる伝本は見つかっていないのも事実です。伊藤家本を旧国宝本の副本とは言えませんが、いま思えば大内氏の文化圏との関わりは、追究する余地があるかもしれません。