訳詩

「冬来たりなば 春遠からじ」はもともと英詩の翻訳の1節だったのに、諺化して広く使われ、「臥薪嘗胆」の類義語という説明さえ出回っているのに抵抗を感じ、ウェブ上でもさまざま解説が加えられているようです。原詩の一部は高校の英語で教えられた記憶がありますが、ここで取り上げるのは原詩の問題ではなく、日本語(古典の時制)の方です。

幾つかの解説が「冬来たりなば」を、「冬が来るなら」「冬が来たとしたら」と現代語訳しています。中には秋の西風の詩なのに、冬が来たら春もすぐ来ると歌うのには違和感があるとする人もいますが、よく見て下さい。古典語では冬が「来」と「来たる」では語感が違い、さらに「なば=完了の助動詞未然形+ば」なので、厳格に訳すなら「冬が来てしまえば」とでもするのが正しい。「春遠からじ」(原文の反語は打ち消し推量で表現された)の前提として、冬が到来して後、とちゃんと述べているのです。

古典文法では現代語と違って、時制や人物関係を細かに表す付属語が多い。それらを外さず解釈すると、現代文とは異なる、立体的な言語世界が姿を顕します。現代語訳は他人に自分の理解を伝える手段に過ぎない。古文は古典文法で読みましょう。但し韻文の訳には、音数や語感など複数の制約が絡み合うので、ときには変則的な訳も生じます。「風立ちぬ いざ生きめやも」は文法的にはおかしい、という話はよく知られています。

一般的に言って和文を英訳すると説明的になり、分量も多くなる。逆もあります。若い頃、早春の訳詩で印象的だったのは、ブラウニングの「出現」(『海潮音』)の第1連でした。「つと走る光 そらいろ 菫咲く」―改めて原詩をウェブで探し出し、最終連の「君が面」の真意を知りました。上田敏の訳はかなり大胆で、しかし短詩の雰囲気を失っていない、言葉全てを説明してしまったらこの詩の命はなくなる、と思いました。