許されなかった表象は何か

大津直子さんの論文「許されざる表象―『潤一郎訳 源氏物語』(旧訳)の削除を再考する―」(同志社女子大学「総合文化研究所紀要」39)を読みました。大津さんは谷崎潤一郎が戦中戦後を通じて、改訳を重ねた源氏物語現代語訳の推敲過程を丹念に追って、毀誉褒貶の激しかった谷崎源氏の翻訳を正しく評価しようと試みています。

従来、谷崎源氏を校閲した山田孝雄によって、時局にとって源氏物語の不都合な部分ー藤壺との密通・冷泉帝即位・光源氏の准太上天皇待遇が抹殺されたのだと考えられているが、じつはそれは谷崎自身から申し出たもので、しかもそれ以外にも大幅な削除が行われている、と大津さんは指摘します。旧訳谷崎源氏では内務省による内閲(検閲)だけでなくそれを忖度した谷崎自身による削除が少なくなかったというのです。内務省による忌避の基準は明確ではないが、当時の史料を参考に考えると、親子関係、家庭内の秩序を乱すこと、皇室の権威に関わることがいけなかったらしいという。

しかし谷崎が源氏物語を訳すに当たって重視したのは、筋を丸ごと伝えることではなく自らが物語世界を文学として再現することだった、という。また問題となる場面は削っても、頭注や他の箇所を読み合わせると分かるように工夫されているというのです。

抜刷の送り状を読むと大津さんの一連の研究は、ほぼ体系が出来上がったとのことなので、まもなく単行本化されるでしょう。最近話題になった神野藤昭夫さんの大著『よみがえる与謝野晶子源氏物語』(花鳥社)も、与謝野源氏の改訳過程を丹念に追っており、谷崎源氏の変遷にも触れています(p382~386)。しかし谷崎源氏の場合は、戦時中の時局、文学者の意志がそれと絡みつつどこまで実現できているのかという、深刻な、しかも今日の私たちにも意味のある問題へ、真直ぐに突っ込んで行かざるを得ません。