まもなく8月

説話文学会のシンポジウムで、コメンテーターが「僕らは、今後も戦争がないという前提で考えているが」と発言したので、えっ、と思いましたが、なるほど現在の壮年以下の世代は、そうなのかもしれません。なんだかんだ言っても、いまの日本が現実にどこかと交戦し始め、自分たちが徴兵されるなどということは想像もできないのでしょう。

「中世文学」66号掲載論文、渡瀬淳子さんの「近代国語教育史の中の『曽我物語』」は労作ですが、「今からでは想像もつかないが、『曽我物語』は関連作品も含め、教科書に掲載されていたことがある」(p86下)と書いていて、これを見た時もえーっ、と思いました。私自身は学校で習ったことはありませんが、子供の頃、従姉たちからのお譲りの絵本には、曾我兄弟が肩を並べて月に飛ぶ雁を眺める場面が、ごく普通にあったからです。古典として読む『曽我物語』とは別に、孝、忍、初志貫徹、兄弟団結などを語る「曾我兄弟の物語」は、世代縦貫の常識として不動の位置を占めていました。

同時代の(同世代ではない)研究者の間でもこれだけの懸隔があることを、普段私たちは忘れて暮らしています。まして日本人全体にとって、戦争が我が事として考えられる機会は殆どない。いまコロナ下で大祝祭を強行し続ける政府を見ていて、国家は決して民を守らない、と気づくことができるか、しかもそのことと、じりじり開戦へ向かい始める転換点に立った時、多くの国民が察知できるかは、無関係ではない気がするのです。

従軍経験のあった父は、かつて米国から派兵の代わりに資金提供を求められた時、「金で済むなら安いものだ」と言いました。そして、日本はもう戦争はできないだろう、いまの若い人たちはあんな経験には堪えられないから、と気休めのように呟いたのです。その時私は、これからの戦争はボタン戦争なのにと思いましたが、黙っていました。