後嵯峨院時代

木村尚志さんの「後嵯峨院時代の和歌」(https://kachosha.com/gunki2020052701/ 花鳥社HP)を読みました。後嵯峨院の時代(在位仁治3年1242ー没年文永9年1272)は政治の実権は武家に移りつつも一旦の平和が訪れ、宮廷を初めとする文化サロンでは、『風葉和歌集』が編まれたり、いわゆる擬古物語鎌倉物語と呼ばれる物語が創作され享受されたりしていた時代です。実生活の中でも貴族たちは、『源氏物語』を模倣したポーズをとったりして、去りゆく王朝時代の余香に浸っていました。『とはずがたり』には、そういう時代の余韻が、来たるべき南北朝への不安と共に満ちています。

木村さんは、後鳥羽・土御門・後嵯峨3代の御代に行われた2つの歌合をとりあげ、伝統を重んじる和歌の世界での継承と変化に対して、定家・為家ら御子左家の歌人たちがどう対応したかを論じています。歌論や判詞(歌合での批評)は難しそうで敬遠しがちですが、歌の実例と共に読めば現代の文芸批評のように理解できます。

私にとっては、『古今集』475貫之の歌に出てくる「吹く風の目に見ぬ」という詞を摂りこんだ土御門院土佐配流後の羈旅歌(『続古今集』942)が、この詞に本歌とは別の意味を与え、定家たちがそれに対して微妙な距離を保とうとしたことが、興味深く感じられました。和歌の内容は、しばしば多義的な解釈を許すのです。

木村さんは、『続古今集』には多様な姿の歌が採られていることに、もっと注目してよいと言っていますが、『続後撰集』(建長3年1251)、『続古今集』(文永2年1265)が編まれた時期こそ、『平家物語』が徐々に形を成して行っていた環境なのです。『新古今集』や『新勅撰集』でなくこれらの勅撰集から、その雰囲気を味わいたいと思って、何度も精読に挑戦したのですが、未だに自分の血肉にすることが出来ていません。