寿永3年(1184)1月、東国の大軍勢が都に迫ります。この時、梶原景季(景時の子)は、頼朝に名馬生食(池月などとも)を所望しましたが、生食の代わりに名馬磨墨を与えられます。その後、頼朝は生食を佐々木高綱に与えてしまうのですが、高綱は景季に生食を盗んだと説明することで事無きを得ます。有名な「生食・磨墨」の逸話です。
【興禅寺(梶原屋敷跡)】
時代は下りますが、正治2年(1200)、梶原一族が鎌倉を追放され駿河で滅んだ時、景高(景季の弟)の遺児景親は、乳母お隅の方ゆかりの羽黒(愛知県犬山市)に移住したと伝わります。興禅寺付近一帯が梶原屋敷跡(羽黒城)とされています。
【梶原一族のレリーフ(興禅寺)】
興禅寺は、梶原景時が目代として尾張国に赴任した時に建立した寺と伝わっています。境内には、景時夫妻の供養塔と梶原一族の五輪塔もあります。
【羽黒城址】
興禅寺に隣接する竹藪の中に羽黒城址碑が建っています。梶原氏は、本能寺の変(1582年)の際に断絶したとされています。
【磨墨塚】
磨墨もまた、羽黒の地で死んだと伝わります。興禅寺に近接する磨墨塚史跡公園の一角に、磨墨とお隅の方の墓と伝わる二つの塚があります。「生食・磨墨」の逸話は人々に好まれる素材だったのか、二頭の名馬伝説は全国各地に点在しています。