宇治川先陣について

大森北義さんの論文「『平家物語』の「宇治川」について」(「古典遺産」67号)を読みました。寿永3年1月、前年に平家を追い落として都入りした義仲軍を、頼朝の命を受けた義経率いる東国軍が討伐しようとして、宇治川をはさんで対戦する。その渡河作戦の一番乗りを、それぞれ名馬に乗った佐々木四郎高綱と梶原源太景季が争う話は、高校の教科書にも採られていて、よく知られています。

大森さんはこの記事には①佐々木・梶原の先陣争い ②頼朝による義仲追討戦争 という2つの主題があるとして、①を主軸にする語り本系平家物語と、①②を併せて描こうとする読み本系平家物語、さらに頼朝が墨俣合戦で先陣争いのトラブルを起こした範頼を叱責した『吾妻鏡』の記事(元暦元年2月1日条)とをつき合わせ、当時の政局を分かりやすく説明していきます。

頼朝は、この戦いの勝敗は後白河院の確保によって決まると考え、宇治川開戦後は、義仲に時間的猶予を与えない迅速な攻撃が必要と判断した。義仲もまた後白河院を伴って都落ちしようとしていた(『玉葉』1月20日条)ので、頼朝は難所である宇治川を可能な限り速く突破するために、先陣を争う人馬の仕組みを予め用意した(と平家物語は語っている)のだ、というのが大森さんの解釈です。

平家物語は、治承寿永の内乱の主役であった後白河院と頼朝を、正面切って描いていないように見えますが、じつはちゃんと描いている。読み本系諸本の方がやや露骨ではありますが、この指摘は語り本系諸本でも同様だと思います。これこそ、平家物語の巧みな歴史語りの方法なのです。