寿永3年(1184)2月、大手の範頼軍は海沿いの山陽道、搦手の義経軍は山側の三草経由で平家討伐に向かいました。西国では平家が勢力を盛り返して福原にまで戻り、生田の森(現・神戸市)に城郭を構えていました。
【生田の森(生田神社)】
生田の森では、熊谷直実と平山季重の先陣争い(一二の懸)を皮切に、範頼の軍勢が攻め寄せます。城内へ進入しようとした河原兄弟は真鍋五郎の矢に倒れ、梶原景時・景季父子らも突撃します。
【箙の梅(生田神社)】
景時は、敵に囲まれた息子を助けるため、再び敵陣に駆け入ります(二度懸)。この時(旧暦2月)、延慶本『平家物語』では景季は箙に桜の青葉を挿し、長門本や謡曲「箙」では梅の花を挿していますが、源平盛衰記では景時が梅の花を挿しています。東国の荒夷(あらえびす)達とは異なる、風情ある武士として描写されているように思います。
【生田神社】
この他、生田神社の境内には、景季ゆかりの「梶原の井」をはじめ、平敦盛が愛でたとする「敦盛の萩」、弁慶が奉納したという「弁慶の竹」などがあります。
【河原御霊社】
源平盛衰記には、河原太郎の子らが生田庄を与えられ、墓を建てて父の供養をしたという後日談も記されています。