和田倉門

午前中は春の嵐。今日は丸の内に用があって、しかも背広で出かけなければならず、ビル風の街を歩けるかなあと、心配しいしい用意していると、昼頃から風が弱まりました。杖と傘とで両手が塞がるので、書類2枚だけどリュックサックを背負って出かけました。用務が済み、どうやら雨も上がったようなので、お濠へ向かって歩きました。パレスホテルがこんなに巨大になっていたとは知りませんでした。若木の桜が満開。

柳の新芽が靡き、お濠の水は岸すれすれまで満杯で、大きなアカツメクサが咲いています。昭和20年代、郷里から出てきた親族を案内して一家でお濠端を歩いた記憶があります。未だ戦後の焼跡から立ち直ったばかり、お濠の岸は一面に蒲公英が咲いていました。目の前は和田倉門、噴水広場があったっけ、と少し歩いて公園に入りました。展望が開けて吃驚。今日は水を噴いてはいませんでしたが、見覚えのある噴水台があるのに広場はすっかり変わってしまって、コンクリートで固められ、八重桜の老木が1本、窮屈そうに1,2輪の花をつけていました。江戸城名残の樟の大木の若葉が美しい。

亡父は晩年、昼休みはここで過ごしていたようで、書陵部へ仕事で訪れた際に遠くから、鳩に囲まれている姿を見かけました。霞ヶ関と大手町、合わせて65年をこの辺りで働いたのです。戦後の復興から所得倍増時代、いつ寝るのかと思われるほど奮闘するのが男の一生、と本人も家族も信じて疑いませんでした。今日の用務も父の遺した事業の締めくくりに関することだったので、知らず知らず私は、2世代の眼で皇居前広場を見ている気持ちになっていたようです。

そこに座るな、とカフェの店員から追い立てられました。誰も使っていないベンチだったのですが、無料ではいけないようです。もう来ることもないなあ、と思って立ちました。

越前だより

この春、福井高専に赴任した大谷貞德さんから写メールが来ました。勝手の違う職場であたふたしている、とのことです。所在地は鯖江ですが、新幹線が通ったので、敦賀経由でぐっと便利になりました。HPを見ると、さすが工業専門学校、ストリートビューで校内を歩けるようになっています。今まで彼は栃木県立の農業高校勤務だったので、理系の生徒に古典を教えるのは初めてではないけれど、やはり勝手が違うでしょう。

写真は去年、採用面接に行った際に、越前市へ足を伸ばして撮ったものだそうです。

大塩八幡宮

木曽義仲が戦勝を祈願したという神社で、公式サイトがあります。最寄り駅は武生。

紫式部公園

紫式部が夫の赴任地に住んだということで、昭和58(1983)年に着工したという平安式庭園。所在地は越前市、最寄り駅はJR武生。昨年は人影もなかったそうですが、今年は観光客誘致に成功しているでしょうか。

紫式部

いや、これはこれは。夜な夜な燕が金箔を剥がして貧者に届けるのに忙しいのでは、と想像してしまいましたが、今年は撮影スポットとして人気が出るかも知れません。

折しも1年遅れた新幹線延長で、太平洋側からも敦賀経由で金沢まで一気に行けるようになりました。列車の愛称は「かがやき」、白山を始め雪を頂く高山に囲まれた地域ゆえの命名と思いましたが、「加賀」が懸けられているのかも。

旅立ちの挨拶に来た彼を送り出した晩、さだまさしの「案山子」を聞いて、「街には慣れたか」というフレーズが身に染みました。まず街に慣れ、その土地のよさを存分に楽しめるようになること。地方国公立学校の生徒は、自分たちの地域を背負って立つ覚悟がある。それに対するリスペクトが、これからの自分をも支えてくれるからです。

今後随時、越前国から来る便りを掲載します。

日曜の構内

午過ぎ、朝刊を持って東大構内へ出かけました。樟の葉が新旧入れ替わる時季で、足元は大量の落葉。正門脇の桜は満開でしたが、周囲の根から蘖が群生し、まるで灌木の桜の藪のようです。老木になり、しかし染井吉野は実生で次世代を作ることができないため、こうして若返りを図っているのだろうと、ちょっと切なくなりました。工学部棟横の並木は高々と、青空に映える見事な花の廻廊でした。

広場へ回ると、一重の枝垂桜が1株、いま盛りです。背景には色の異なる新芽の出た木が3本。子供を遊ばせている一家や、シートを広げて寝転んでいるカップルもいます。驚いたのは、個人用テントが2張も建っていたこと。家族連れが入っていて、ここで1日過ごすのでしょうか。甘い新芽や何かの花の匂いが風に乗ってきます。私も銀杏の下に腰を下ろそうとしたら、ボール遊びをしている兄弟2人が備付の椅子に荷物を広げて占拠しているので、1つ空けてくれ、と言いました。子供はちょっと躊躇いながらも空けてくれたのですが、驚いたことに枝垂桜の根元に座り込んでいた若い両親が、もう1つの椅子をそっちへ持ってこさせたことでした。座るわけでもなく、ボールをぶつけて遊んでいます。

心が冷えました。みんなが見る桜の下、それが見える椅子、確保しておかなければ気が済まないのでしょうか。昨日歩いた街は、こちらが老婆2人連れだったせいか、見知らぬ人ともEVやバスの乗降を譲ったり、短い言葉を交わしたり、ベビーカーから2歳くらいの女の子に微笑みかけられたり・・・ああ花の街は誰もが心温かくなる、と思ったのに。

新聞を読み終わり、小さなおにぎりを1つ食べて、赤門前の八重桜、学士会館跡の枝垂桜(こちらは八重が4本)を見て帰りました。八重桜は未だ四分咲き、心なし元気がないようなので、幹を軽く叩いて、がんばれよ、と呟きました。

HANAMI2024

午後から、恒例の花見に出かけました。長野の友人が、わざわざこのために上京して来て、待ち合わせました。最近できた商業施設で台湾料理の杏仁スムージー胡麻団子を買い、東京都戦没者霊園のベンチでお八つ。2人ともスムージーは初体験です。桜は満開でした。友人の手土産は信濃の薄緑が美しい蕗の薹と、善光寺八幡屋礒五郎謹製の、何とガラムマサラ。まあ印度の七味唐辛子だと思えばいいわけですよね。

東京都戦没者霊園から見る文京区役所

戦没者記念館に初めて入りました。鉄兜や飯盒など、昔、我が家にもあったなあ、という器物を見ていくうち、戦没者の家族に当てた最後の手紙の展示に出くわし、言葉はやはり心に刺さります。本館収蔵品の検索端末というのがあって、タッチしてみると、氏名年齢出身地、戦死の場所も理由も?になっている項目にぶつかり、胸に迫りました。2度とあってはならない。そう思いながら伝通院まで歩きました。枝垂桜が見事でしたが、何と言っても本堂前の古木2本が圧巻。満開です。風がないので落花もなく、威風堂々の桜でした。バスに乗って播磨坂へ。

播磨坂の桜

定点観測と称して毎年来ている場所です。今年は区の桜まつりの日程が早すぎて、イベントはすでに終了。家族連れ、ペット連れで賑わっていました。満開です。花の雲という表現がぴったり、20年近く「定点観測」を続けてきて、こんな年は初めてでした。

大塚の夜桜

暮れてきたのでバスに乗り、大塚駅前の桜並木へ。もう夜桜、ライトアップはなし。1963年に植えられた桜はすっかり老木になり、幹から噴き出すように花をつけています。

老木の花

例年入る居酒屋「ととや」は、なくなっていました。やむなく駅ビルのとろろ飯屋で、花見酒を呑みました。喋り続けたのは他愛もない話ですー過去の思い出、家族の動静、日米関係、総理の器・・・こんなとりとめのない話ができるまでに、40年かかりました。

水戸便り・サクラサク篇

40年近く前の教え子が水戸に住んでいて、ケータイで撮ったらしい写メールを送ってきました。一人娘が一浪して自治医科大学に入った、との知らせです。

サクラサク校舎

国産ロケットの打ち上げ見物や、ボーイスカウト(女の子も入れるらしい)や、防衛大学オープンキャンパスや、米国のNASA見学など、様々な体験をさせて育てたためか、自分の希望を枉げずに、しかし真の目的を見極めるのにちょっと遠回りをした、という2年間。親にとっては一際めでたいサクラサクだったらしい。

自治医科大学

来賓トップの挨拶が、総務大臣(審議官代読)だったのに吃驚した、とメールにあるので、ウェブで調べると、1970年に自治相が地域医療、殊に僻地医療のために設置を言い出したのだそうで、各都道府県別に入学定員枠が決まっており、卒業後9年間は本人の出身地域・現住所、保護者の現住所のどれかで研修を受け、公立病院に勤務する義務(学費免除の条件)があるらしい。総合医をめざすため臨床実習を重視したカリキュラムを組んでいるという。医学部と看護学部があるようで、あの尾身茂さんもここの出なんですね。HPによればこの3月、医師国家試験の合格率は驚異の100%。

宇都宮大学に勤めた3年間、森林のようなキャンパスの隣を新幹線で走り抜けて通っていたので、何となく親しみを感じていたのですが、公設民営大学という制度を初めて認識しました。さらに驚いたのが校歌の一節ーあの所在地は、何と7世紀の下野薬師寺ゆかりの地だったのです。下野薬師寺天武天皇創建と言われ、奈良東大寺、筑紫観世音寺と並んで、僧侶の資格を出す戒壇のあった寺院でした。

「入学式に出てみて、新入生は、眼力(めぢから)のある子が多い印象を受けた」ともメールにありました。全寮制だそうで、さて親が、早めの子離れを遂げられるか。

大和便り・三春滝桜篇

天気予報では今日が東京の桜満開日。しかし我が家の近辺では二,三分咲きです。長泉寺へ行ってみたら、境内では山桜が満開になり、どこにこんなにいたのかと思うほど沢山の蜜蜂が花の中を忙しく飛び回っています。老人2人がスマホ撮影して去り、プードルを連れた女性が愛犬を座らせて撮影(今どきのペットは、ちゃんと写真の構図に収まるように座る)していました。この山桜は空襲に焼け残った老木です。区の樹木医が派遣されたのですが、樹勢の衰えは明らかで、若木が2本、新たに植えられました。

和文華館の三春滝桜

高木浩明さんから、大和文華館に調査に行ってきた、と写メールが来ていました。
三春滝桜は、日本三大桜の一つで、国の天然記念物。室町時代の画僧雪村の研究者で、大和文華館の学芸員であった林進氏が、雪村が晩年を過ごした福島県の三春町から若木を譲り受け、移植されたものだそうです。】 あまりの見事さに唸りました。

【息子も大学が決まり、今日は妻が息子の城作りの手伝いに、新しく借りたマンションに行っています。奈良の家には私と、自分を人間だと思っている犬1匹が残されました(高木浩明)】。

犬は集団生活をする動物で、自分が序列最下位だと生きていけないので、家族の中でビリから2番目(以上)だと思い込むのだそうです。それゆえ末っ子とは仲が悪いことが多いと何かで読んだ覚えがあります。昔、大学職員から娘が犬を飼いたがって困る、という話をされたので、この話をしたところ、翌日「娘に、あんた、犬の下になるけどいい?と訊いたらいいと言うので飼いました」との報告がありました。

餌を呉れる主婦は犬にとって最高位のボス。すると高木家では今後、浩明さんの序列は最下位になるわけでしょうか。

川越便り・羽根布団篇

暫く別府で悠々老後を満喫していた友人が、川越に戻って庭の手入れをしている、というメールを送ってきました。早春を告げる、可憐な草花を植えた庭なのに、眺める主が留守で荒れていくのは想像するだけで寂しい、と言ってやったら、むっとしたようで、ちゃんと草取りをしている、と書いてありました。花は自らの種の保存のために咲くのでしょうが、やはり見てくれる者がいなくては可哀想。

葡萄ムスカリと牡丹の芽生え

赫く見えているのは牡丹の芽生えだそうです。我が家では、今年はムスカリは不作。例年なら20株は咲くのに、今年は6、7株しか咲きませんでした。去年、球根を掘り上げるのが早すぎたようです。遅いと梅雨にかかって十分乾燥させられず、貯蔵している間に全部腐らせたことがあって、懲りたのです。今年は掘り上げに配慮しなくっちゃ。

ニゲラの芽

彼の花壇にはいま、ラナンキュラスやノースポール、アネモネなど春色の花が咲き誇っているらしい。ニゲラも育っている、とのこと。去年、彼から送られた川原撫子やニゲラの種子を我が家でも播いておいたのですが、ニゲラは冬の間に発芽したもののひょろひょろで、茎が太くなるのを待っています。人参の葉に似ていて、「おまえうまそうだな」と言いたくなるようなみずみずしさです。我が家ではいまビオラが爆発するように咲き乱れ、菊の芽がぐんぐん伸び、素馨花の紅色の蕾が目立ってきました。

ブログに未だに「重い冬の掛布団」を使っているとあるのを見て、ああ昭和の人だなあ、と思ったとメールにあり、今どきは冬でも軽い羽根布団を重ねて使えば快適、と言ってきたので、心中、オトコは能天気だなあと思いました。今どき都内では、布団を処分するのはたいへんなんだ(粗大ゴミの申し込みから始まって・・・)、使える物は使えなくなるまで使うのがたしなみ。