コロナな日々 23rd stage

アメリカ在住の知人たちの年始の便りには、家族がコロナに罹ったという話もありました。いずれも3度目のワクチン接種を済ませていたのに、ということでした。

【年末に夫がコロナ(たぶん、オミクロン株だと思いますが)にかかりました。予防接種3本目も打っていたので、病院には行かずに済み、インフルエンザレベルの病状でした。自宅で隔離状態で、マスクしたまま食事を取りに来て、また部屋に戻るという生活を10日間近く繰り返しました(症状が出て7日目には、ほぼ平常の状態でしたが)。幸い私にも子供たちにも伝染しなかったのですが、以後、公共の建物にはN95のマスクをして出入りしています。実家にも、さっきアマゾンで高レベルのマスクを送ったところです。】

年明け、じわじわと、そしてここ数日、爆発的に感染者数が増えているのに、街は駆け込み需要というのか、人出が減りません。年末24日以降2週間のツケがいま顕在化してきているのだから、今の人出の影響は今月末にかけて出てくるわけでしょう。センター試験もあれば、学校では学年末試験もある。

米軍基地の周辺で感染が増えているのは、出国時にも入国時にも検疫なしで米兵が日本へやってきて街を出歩いたり、基地に出入りする日本人業者と接触したりしたからだと報道されています。米国では3回目のワクチン接種が行き渡っているためと説明されているようですが、外務省や防衛庁はこうなる前に、米軍関係者と打ち合わせしておくべきだったと思います。日本人の生命を守る気があるのならば。

恐いのはこういう状態の中でデルタ株に感染し、対応が遅れる内に重症化することです。私は2回目接種の効果がほぼ切れたところ、明後日、歯医者の口腔ケアの予約をキャンセルしようと考えています。命あっての物種です。

源平の人々に出会う旅 第60回「鎌倉市・御家人その後」

 源平合戦を勝ち抜き、鎌倉幕府を開いた頼朝を支えたのが御家人たちです。しかし、頼朝の死後、梶原氏、和田氏などの有力御家人達が次々に滅ぼされたことが『吾妻鏡』に記されています。

比企能員一族の墓(妙本寺)】
 比企氏は、頼朝の乳母である比企尼の一族です。比企能員は、娘の若狭局が二代将軍頼家の側室となり一幡を産んだことで勢力を増し、北条氏を討とうとしますが、先手を打たれて滅ぼされてしまいます。(建仁3年(1203)9月 比企の乱)

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畠山重忠邸跡】
 実直で「坂東武士の鑑」と称される畠山重忠も、北条政子の命令で比企氏討伐に参戦していました。しかし、元久2年(1205)6月、謀反の疑いをかけられ、北条義時軍に攻め滅ぼされてしまいます。

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【畠山重保邸跡と重保墓】
 ことの発端は、重忠の子重保(母は北条氏)と平賀朝雅北条時政の後妻牧の方の娘婿)との対立とされています。重保は、重忠討死よりも先に、由比ヶ浜三浦義村に討たれています。

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〈交通〉
JR横須賀線鎌倉駅
    (伊藤悦子)

国際家族2022

アメリカで日本語講師をしている安宅正子さんから、恒例の電子年賀状が来ました。

【長女は春に高校を卒業、コロナのため卒業式は校庭で行われました。コロナの影響は特に高校の最終学年に大きく出たように思います。大学入学試験は試験場が次々に閉鎖されたために必須ではなくなり、進学も近くの大学に行く傾向がありました。彼女はヴァーモント州立大学の神経科学科に行くことにしたのですが、入学前に父親の出身地アイスランドの高校で 1 年過ごすことにしました。クリスマスはノルウェーにいる父方の祖母と過ごし、マニュアル車の運転もできるようになりました。

私は秋からボケ防止も兼ねて短大生になりました。理学療法助手のプログラムですが、苦手な暗記中心で、思ったよりずっと大変。試験と宿題に追われ、どうにか進級しました。

次女は高校のハイブリッド授業が夏休みの 1 か月ほど前に終わり、初めて自分のクラス全員と教室で一緒になりました。校内はマスク着用が義務付けられていますが、人数制限はあるものの昼ご飯も食堂で食べられるようです。姉妹はビデオチャットでしょっちゅう話していて、寂しいとは思わないようです。私の宿題の英語を直してもくれます。

昨夏は、家族でアイスランドに行きました。夫が子供の頃は氷河に覆われていた山々も、温暖化のせいでずいぶんと様子が変わったようです。緯度が高い地域に行くと温暖化を実感します。彼はここ何年か熱心に日本語を勉強しており、子供たちに比べて語彙は豊富で、漢字も確実に読めるのですが、家庭で使う日常語は子供の方が感覚的に速く理解するのが面白いです。どこにいても勉強、会話、娯楽ができる時代になったのはありがたいけれど、人に直接会う時間が少なくなりました。人と会うことの重要さ、自宅勤務できない人たちのおかげで普通の生活ができていることがわかったことなど、今まで当たり前と思っていたことを見直す機会を得た1年でした。(安宅正子)】

延慶本全注釈別巻

『延慶本平家物語全注釈』別巻として、『全注釈』の補訂と論考を併せ収めた1冊が出ました(2021/12 汲古書院)。『全注釈』の本文を収めたCDが付録に付いています。あとがきによれば、水原一さんの遺志を継ぐかたちで、1996年から2013年まで延べ44名が参加した研究会活動の成果だそうです。

論考篇には長短取り混ぜ19本の論考が並んでおり、佐伯真一「延慶本『平家物語』研究の軌跡と課題」、出口久徳「延慶本『平家物語』における「顔」をめぐる表現」、牧野淳司「延慶本の物語第二本(巻三)「法皇御灌頂事」にある道宣律師と韋荼天の物語について」など、延慶本を読むうちに直面した問題が取り上げられています。桜井陽子「『頼政記』考」は『頼政記』について、早川厚一さんの見解に反論し、本書は源平盛衰記を遡る本文を用いて抜き書きし、以仁王の乱を批判的に描く教訓性と、文武に秀でた武士への関心とを中心にまとめた物語で、『平家物語』受容の幅広さを示すものとしています。

近藤好和「先帝入水時の「山鳩色ノ御衣」について」、平藤幸「「尻鞘」考」からは、文学作品中に描かれた事物について注釈を施すことの難しさを、改めて知らされます。有職故実書はそれぞれの家、流派による見解を録しているのであって、現代の我々が使い慣れた事典類のような解説をしているわけではない。注釈作業を抱えている私は、自戒の念と共に溜息も出ました。

私にとって読み応えがあったのは、阿部亮太「認識としての「保元・平治」追考」、それに久保勇「近世・延慶本三写本の実態と環境について」、高木浩明「蔵書家としての角倉素庵」でした。殊に後者2本は延慶本がどんな範囲、どんな方面に流布したのか、他の異本とも関連して新しい視野が開けそうな視角です。

信濃便り・知音都市篇

長野の友人から、3日に散歩のついでに撮った、と写メールが来ました。

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真田邸界隈

【町内をぐるっと歩いてきました。年末年始の6日間は宝物館、文武学校、真田邸などの施設は休館となり、腹ごなしや散歩に出かける場合、行き先は寺院か神社です。駐車場完備、階段なしの象山神社は格好の初詣先らしく、大賑わいでした。写真右手は真田邸の塀、左手は武家屋敷(樋口邸)、正面奥は真田藩文武学校です。】

なるほど、すがすがしい正月3日の気分がよく撮れた風景です。

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浜田市からの贈り物

松井須磨子の出身地である長野市(旧松代町)は、島村抱月の出身地である島根県浜田市金城町)ほか2つの市と、「カチューシャの唄知音都市」交流を行っています。平成14年に浜田市から記念木の山茶花が贈られ、文武学校近くに移植されています。蕾を見つけてから開花を楽しみにしていましたが、雪にやられてしまったようで・・・目を凝らしてみないと蕾のありかもわかりません。】

ふつうなら姉妹都市というところでしょうが、「カチューシャの唄知音都市」とは時代色のある命名ですね。須磨子が舞台劇「復活」(トルストイ原作)の中で歌った「カチューシャの唄」(1914年発表。戦後流行ったロシア民謡とは別)は、戦前に青春を送った世代の愛好歌でした。浜田は昔は石見国日本海沿いの、静かな、魚の美味しい町です。何故山茶花が記念木に選ばれたのかな。山茶花鳥取市の木でした。冬の厳しい土地で唯一、雪に埋もれても咲く花です。

ちなみに鳥取県の花は梨、市の花は辣韮。島根県の花は牡丹、浜田市の木は桜らしい。それぞれの県に、シンボルとなる木、花、鳥や魚が決まっています。ご自分の県のシンボルをご存じですか?鳥取県の魚は(蟹ではなく)鮃でした。

回想的長門本平家物語研究史(13)

はやく明治末期(1906年)から翻刻が出ていた平家物語異本は、長門本でした。それゆえ辞書の用例には平家物語(流布本、覚一本)のほかに、源平盛衰記長門本平家物語がよく挙げられていたのです。連歌が御専門の島津忠夫さんが、長門本について、室町語の実態を反映しており、その成立は南北朝から室町初期ではないかと指摘された(1992年)のは、辞書の編纂改訂作業を通じての見識によるものでした。

私は、内々考えていたことが言われて嬉しくはあったのですが、幾つか事実誤認や見落としがあり、私がこれまで書いてきたものを全く御覧になっていないようだったので、該当論文のコピーを同封して手紙を差し上げました。その後、徒然草226段に言う「生まれつきの声」の解釈についても、同様に手紙を出しました(1995年)。自分の書いた物を読んでいないのか、という発言は大嫌いなので大抵の場合は見過ごしてきたのですが、島津さんは説話や軍記研究者の多かった90年代の名古屋で、研究会のリーダーとして慕われていた方だったので、放ってはおけなかったのです。島津さんは誠実に対応してくださり、著書『平家物語試論』(汲古書院 1997)ではきちんと修正されています。

長門本には室町の雰囲気がたっぷり吸収されている、長門本の「庶民性」と言われる性格は、じつはその反映ではないのか。かつて水原一さんは私に、長門本は女性的だね、と言ったことがありましたが、それもまた「室町的」文芸性の印象によるのではないか。鎌倉期までは、物語を目指せばその目標は源氏物語とその末流たちでしたが、室町期に物語らしくなろうとすれば、自ずから中世小説的な造型、挿話、表現で装うことになる。そう考えて書いたのが「人物造型から見る長門本平家物語」(『長門本平家物語の総合的研究 第3巻 論究篇』2000 勉誠出版)でした。

温故知新

新年に得られた古典関係の話題を2,3御披露します。 薦田治子さんの年賀状に、平家語り研究会のHPで、現在譜本を通して平家を語れる3人の伝承者の演奏を公開したとあったので、さっそく視てみました。授業などで平家語りとはどんなものか、見せるには便利な視聴覚教材だと思います。「木曽最期」が入っています。heike-katari.com

今年の大河ドラマ監修者坂井孝一さんや、「承久記絵巻」の再発見者長村祥知さんが出演するというので、昨夜のNHKーBSPで「鎌倉殿サミット」なる番組を視てみました。印象に残った点は①『吾妻鏡』はやはりくせ者だなあ、ということ。次に②日本史研究のテーマにも時代の流行が影響していて、「承久記絵巻」(絵巻としての成立は近世初期でしょう)は好機を得たこと ③パネラーたちはしきりに現代の視角を持ち込むなと言いながら、ご当人の偏り(鎌倉はこわいなあ、と京都弁で言う人やジェンダー論を持ち出す人はもとより、天皇制への評価などは個人差が明白)もまた区々。そして④歴史学者って、結構お洒落なんだな(司会の爆笑問題も顔負け)等々でした。

米子城から見る大山が素晴らしい、という番組を元日に視たので、日本史の錦織さんに城跡の保存状況を問い合わせたところ、上の方の石垣は綺麗に残っているとのこと。今は娘夫婦のいる京都で暮らす錦織さんは、いかにも京都らしい正月だったようです。

【伏見の町中の薬局で「陀羅尼助丸」という、有名な民間薬を買ってきて飲み、論文書きのストレスからくる不調はだいぶ元に戻りました。薬局の人は、この辺の人は胃腸の不調には陀羅尼助丸です、と言っていました。

元日に、石清水八幡宮に出かけましたが、車では神社に近寄れないことになっていて、そのまま帰りました。後で娘婿に聞いたら、正月は京阪電車です、だそうで、近くの神社に初詣を済ませました。(錦織勤)】 何事にも先達はあらまほしき事なり。