回想的長門本平家物語研究史(5)

学部を卒業して就職し、1年も経たずに進路変更した頃のことは、『文学研究の窓を開ける』(笠間書院 2018)や本ブログにも書きましたが、大学院入学後未だ西も東も分からない6月に、いわゆる東大闘争が始まり、授業も図書館も全く利用できなくなりました。一方、入学が決まってすぐ、私は堤精二先生から国書総目録のアルバイトを紹介されていました。慶応3年以前の、すべての日本人著作物の所在目録作成という、大がかりな編纂事業で、岩波書店の下部機関のような、国書研究室という組織で行われており、東大の若手研究者が助勢し、その下に院生がアルバイトで雇われたのです。

私の仕事は、東京国立博物館静嘉堂文庫・東洋文庫に出向き、編集員たちが質問カードに書いた事項を調査して来ることでした。バイト料はカード1枚¥50、この事業は戦前戦中を通じて継続されてきたので、カードと言ってもあり合わせの紙(チラシや反故を同じ大きさに切ったもの)に万年筆書きされていました。何しろ書誌調査の実体験は殆ど無く、質問は専門外のあらゆる分野に亘ります。当時は苦しいアルバイトでしたが、ずっと後になって、無差別に数多くの写本版本を触った経験は目に見えぬ力になりました。

長門本平家物語は果たして1種類だけかーその当時、そういう事実さえ確実ではありませんでした。赤間神宮所蔵の「旧国宝本」については中島正国氏の解説(1931年)があり、翻刻には国書刊行会が明治39年(1906)に出したものがありましたが、底本のありかも校訂の方針も不明で、存疑が多かった。そこで私は、全国にある長門本を1点ずつ確認する作業を始めました。国書総目録に掲載される予定の、冊数の多い「平家物語」を抽出して、1968年の夏からしらみつぶしに見て歩き始めたのです。その中には後年関心を持って調べることになる奈良絵本や、平曲譜本も含まれていました。

コロナの街・part 24

文字通り雲一つない晴天に誘われて、播磨坂のスーパーへ出かけました。休日なので街には親子連れが多いのですが、最近何故か、異常に燥ぐ子を見かけます。横断歩道を渡った途端、前を歩いていた男の子がいきなり舗道に座り込みました。杖を突いていると、こういう突然の障害物が恐い。急によけようとして転ぶからです。発達障害の子かな、と思いながら通り過ぎたら、今度はその姉らしき子が舗道に四つん這いになって動かない。どうやら未だ帰りたくない、と両親にアピールしているのらしい。公共空間は家の中と違うんだということだけは、小さい内から覚えさせておいて欲しいと思います。

水木や桜など紅葉の早い木々は、もう色づく準備を始めています。街のあちこちで古い建物が取り壊され、ビル工事が始まっていて、資金はある所にはあるんだなあ、と妙な感心をしながら、バスを降りました。

スーパーでは日の当たる入り口におはぎのパックが積んであって、そうだお彼岸なんだと思いましたが、餡ものは傷みやすいのに、と手を引っ込めました。チコリや空心菜、ミニ胡瓜や、宮崎の山牛蒡、静岡のちりめんじゃこなどを買い、ふと気づくと、定価を見ては高いな、やめとこう、という気持ちになるのがいつもより頻繁です。与党総裁選候補者の所信表明を聞いていると老後の資金不安が募るばかり、知らず知らず財布の紐を締める心理が働いていることが分かり、苦笑しました。

でも、出口近くに小川軒のレーズンウィッチが出ていて、思わず1箱買いました。子供の頃、こんな美味しいお菓子はほかにない、と思っていたお菓子です。

バスを待つ間10分ほど日に照らされても、もう暑くはなく、マスクも苦しくありません。今夜は十四夜。明日は扇屋へおはぎを買いに行こう。

専守防衛で

台風一過晴れ上がり、暑さが戻ってきて、薄い葉のコリウスは朝からよれよれに萎れていました。コキアの茎が赤くなり始め、パプリカの白い花が点々と、地上の星のように落ちています。久しぶりに印度の壺に水を張りました。木犀や彼岸花は、全国的に例年より早咲きしているらしい。9月が慌ただしく過ぎていこうとしています。

11日は米国の貿易センター襲撃事件から20年目でした。私はあの日、夜遅くのニュース画面でその瞬間を視ました。何の躊躇いもなく、高層ビルに突き刺さるように真っ直ぐ進んで行く航空機を見て私がまず思ったのは、その憎悪の大きさでした。あんなに憎まれる国に依存していてはいけない、とつよく思いました。その思いはいま回顧しても、巨大な質量を持ったものでした。身体をも衝き動かす、信念に近いものです。

その後さまざまな映像が報じられましたが、ビルから飛び降りる人影が降るように空に映る画面は、トラウマになりました。暫くは、落花の画面も見られませんでした。彼らの冥福を祈る言葉すら、持ち合わせがありません。しかし私には、6万数千人の米国人と共にその何倍かのアフガン人の人影も、空を漂っている気がするのです。誤爆だった、と謝られても、夫も子も帰っては来ません。他人の土地で血を流してはいけない、どんな理由があっても。

勇ましい言葉、抽象的且つ神秘的な言葉を政治家に使わせたくない、と思います。国民を奪還する権限を自衛隊に与える立法を、という所信を聞いた時は耳を疑いました。奪還しに行く先の国家主権をどう考えているのか。そのために外交交渉に苦労してきたのではないか。腕力が強ければ負けない、というわけではない。勝ち負けを考えずに済む日々をこそ、庶民は望んでいます。

源氏物語宿木巻評釈

田村俊介さんから「源氏物語宿木後半評釈(2)」(「富山大学人文学部紀要」75号)の抜刷が送られてきたので、解説を読んでいるうちに、本文批判の問題は作品ごとでなく汎く共有されるべきだ、と痛感したので書いてみます。私は源氏物語の諸本研究については、30年前に阿部秋生先生の著書を読み囓り、源氏物語でさえこんなに大変なんだ(個人の著作であり、書記本文であることがはっきりしており、定家の校訂を経て多くの研究蓄積があるにも拘わらず)、と嘆息して以来、研究動向を逐次追究しているわけではなく(それに田村さんの文章は、些か舌足らずの面がある)、あくまで素人の感想ですが。

解説は、1宿木巻の釈文の底本及び「合成」の巻以外の巻から注や鑑賞で語句を引用する際の本文について と2注釈のあり方について とに分かれ、その後に宿木巻の最後4分の1について、釈文・略注・鑑賞を掲出していますが、注は大半が既出の校注書からの引用なので、本人の主張は鑑賞欄にあるのでしょう。

解説1の中で田村さんは、現在広く使われている大島本の本文に問題があることは認めつつも、その「相対的古態性」「相対的優秀性」をもっと吟味した上でなければ、源氏物語の別本を羅列的に発掘、評価するのは徒労ではないかと思うようになった、と言っています。別本の時代の享受が反映された異文なのか、その親本の時代のものなのか、または誤写によって生じた異文なのか、区別できているのか、と。そこだけ見れば通じやすそうな異文も、前後の文脈や他の巻の記述と照合すると不適切な場合もある、と。

思い当たります。平家物語源平盛衰記でも同様の例は少なくない。田村さんは最近話題を呼んだ新出若紫巻についても触れています。新発見の資料の評価、殊に自分が発見した新事実は、当人が最も意地悪く検証する習慣が、プロの条件。 

幸せの選択肢

ダイバーシティという理念で括られる運動の中で、障害者への対応と、同性婚に関して、私には何か歯に引っかかる、あるいは喉につかえる感じがあって、うまく問題を掴み出すことができずにいたのですが、前者について16日付朝日新聞朝刊(13面)の岸田奈美さんの寄稿「幸せの選択肢」にヒントの一部が得られるような気がしたので、書いてみます。後者はもう少し考えてから。

パラリンピックには何かしら自己矛盾がある、そんな気がしていました。障害者スポーツはもともと戦傷者の機能回復のために奨励されたのだそうで、有目的だったし、他者との比較級で行われるものではなかったわけです。パラ五輪の出場者は今やアスリートと呼ばれ、メダルも国家ごとに数えられたりする。どこかちぐはぐです。

岸田さんはネット出身のライターだそうですが、長文の寄稿は、身近な実例から出発して、一直線に結論へは趨らず、幾つもの体験を転々と綴りながら、障害者の世界にも差別や競争があること、スポーツにはどうしても熟練度や勝負がつきまとうこと、障害者・健常者に関係なく人は、自分の幸せを選択し、そのために情熱を傾ける姿が素晴らしいのだということが解ってきた、と語ります。「身体に障害があるのにスポーツをしているのがすごいんじゃない。社会にある環境や障害にぶち当たりながらも、スポーツで輝くのがきっとすごいのだ」と。

「自分らしく幸せに生きるための手段や居場所」が「無数の選択肢」の一つとして在り続ける社会、みんなが一律に記録を競うのでなく、互いの安全と理解を妨げない保障の上で、めいめいが幸福追求にいそしむ姿を楽しく眺められる社会が望ましい。だとすれば、パラリンピックを五輪に並置することが正解なのかどうか。

巴里からの電話

昨夜、夕食後に電話が鳴りました。出てみたら、巴里のj.ピジョーさんからでした。特別な用事ではないけど、と断って、15分ほど互いの近況を話しました。毎年、秋には訪日していたのに、昨年も今年もCOVID19のためできずにいる、そのうちに自分が旅行できなくなるかもしれない、と言われました。巴里は映画・観劇は自由、以前のように外出目的を一々届ける必要はなくなったがマスクは必須、とのことでした。

ピジョーさんは、京都賞も受賞した、中世日本文学の専門家です。一昨年までは毎年来日し、研究に必要な知識を入手したり、国内を旅行したりしていました(各地で、秋の海で泳ぐのを楽しみにしているので、心配させられました)。海外旅行は禁止されてはいないが、もし日本で罹病すると難しいことになるのでと言われ、それは国内の私も同じ。

互いにいま何をしているか、尋ねました。ピジョーさんは、日本古典文学作品から、海に関する名場面を抜粋して仏語訳した本を出版しようとしており、翻訳はもうできたが、どの程度解説をつけるか迷っていて、専門の異なる文学好きの友人に原稿を読ませて、意見を訊いているところだそうです。軍記物語では義経記源平盛衰記を取り上げた、仏蘭西で一番有名な日本人は義経だから、と笑っていました。

部分訳でも源平盛衰記の仏語訳はこれが初です。昨年、安徳天皇入水(巻43)の本文について相談されたので、私は宗盛父子が生け捕りとなる場面もつけることをお勧めしました。彼らはなまじ「水練」、水泳が達者だったので、海の上で互いに相手が沈んだら自分も沈もうとぐずぐずしている内に捕虜となる。水泳好きのピジョーさんにも相応しいし、平家の敗因の一つとなった宗盛の性格をよく表す挿話だからです。

来年は逢えるでしょうか。老人にとって1年の空白は、生涯の空白になりかねません。

阿波国便り・実りの秋篇

徳島の原水民樹さんから、先週このブログに書いたアムンゼンの物語はかつて愛読した、とメールが来ました。

【子供の頃読んだアムンゼンとスコットの南極点到達競争の物語を思い出しました。縁側に寝転んで、宝島や巌窟王などを読みふけっていたあの頃が一番幸せだったかも。】

アムンゼンとスコットの話は、小学校国語の教科書に出ていたと思います。当時は講談社から少年少女向けの世界文学全集が何種類も出ていて、「巌窟王」は、私もそれで読みました。缶詰の話は後年、新聞記事で読みました。

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渋柿

【野山はもうすっかり秋の風情です。もうしばらくすると、焼酎で渋抜きをした柿が産直などで売り出されます。干し柿のようにくどくなく、さっぱりした甘さです。一度自宅で渋抜きを試したことがありますが、うまく出来ませんでした。】

焼酎で渋抜きした柿はさわし柿とか樽柿というらしい。ほたほたとした柔らかさと甘みが美味しいですね。写真では、そろそろ色づき始めています。

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キウイ

【若い頃、古典に出てくる「こくわ」をゆかしく思っていました。しかし、それがキウイの仲間と分かった途端興味が失せました。私はキウイアレルギーなので。(原水民樹)】

果物アレルギーは気の毒ですね。調べてみると、果物の中ではキウイがダントツにアレルギーを起こしやすいそうです。学校給食には出さない方がいい、とありました。以前、このブログにもキウイのことを書きましたが、またたびの仲間。花は苺に似ています。野生のコクワ(サルナシ)は、小ぶりで、キウイと違って獣毛のような毛がありません。一度、ベビーキウイの名で店に出ていたので買ってみましたが、食べやすいけれど小さすぎて物足りない。山野で遊ぶワイルドな子供たちのおやつ向きです。