幸せの選択肢

ダイバーシティという理念で括られる運動の中で、障害者への対応と、同性婚に関して、私には何か歯に引っかかる、あるいは喉につかえる感じがあって、うまく問題を掴み出すことができずにいたのですが、前者について16日付朝日新聞朝刊(13面)の岸田奈美さんの寄稿「幸せの選択肢」にヒントの一部が得られるような気がしたので、書いてみます。後者はもう少し考えてから。

パラリンピックには何かしら自己矛盾がある、そんな気がしていました。障害者スポーツはもともと戦傷者の機能回復のために奨励されたのだそうで、有目的だったし、他者との比較級で行われるものではなかったわけです。パラ五輪の出場者は今やアスリートと呼ばれ、メダルも国家ごとに数えられたりする。どこかちぐはぐです。

岸田さんはネット出身のライターだそうですが、長文の寄稿は、身近な実例から出発して、一直線に結論へは趨らず、幾つもの体験を転々と綴りながら、障害者の世界にも差別や競争があること、スポーツにはどうしても熟練度や勝負がつきまとうこと、障害者・健常者に関係なく人は、自分の幸せを選択し、そのために情熱を傾ける姿が素晴らしいのだということが解ってきた、と語ります。「身体に障害があるのにスポーツをしているのがすごいんじゃない。社会にある環境や障害にぶち当たりながらも、スポーツで輝くのがきっとすごいのだ」と。

「自分らしく幸せに生きるための手段や居場所」が「無数の選択肢」の一つとして在り続ける社会、みんなが一律に記録を競うのでなく、互いの安全と理解を妨げない保障の上で、めいめいが幸福追求にいそしむ姿を楽しく眺められる社会が望ましい。だとすれば、パラリンピックを五輪に並置することが正解なのかどうか。