屠蘇散

スーパーで屠蘇散はないかと尋ねたら、仕入れたはずだが、とやっと探し出して来ました。思わず、今年のだろうね、と念を押してしまいました。もともと酒屋が年末に味醂か酒を買うとおまけにつけてくれたものですが、近年はその習慣がなくなりました。数年前、近所の薬局で買おうとしたら、跡継ぎの店員が別のデザインのものもありますが、と言う。ちょうど主人が居合わせたので、去年の品かと訊いたら頷きました。爾来、その店には足を踏み入れていません。

我が家は毎年、大晦日に父が念入りに味見をしながら屠蘇酒を調合していたので、博多の風習と思っていたら、どうもそうではないようです。従兄の嫁さんは作らないと言う。もともとは中国渡来の薬酒が宮中の風習になったようなので、関西の習慣でしょうか。味醂だけで作る家もあるようですが、我が家は酒2味醂1に、砂糖少々で調整します。

元旦はまず、福茶と言って濃く出した番茶に梅干しを入れて呑むことから始まります。地方によっては昆布や黒豆を入れる所もあるらしい。これも従兄の嫁さんは、桜花の塩漬を入れると言う。尤も嫁さんは、もとは秋田から出て四谷に住んでいた家柄なので、あちこちの風習が混じっているかもしれません。それとも父は、東京で官途に就き、九段育ちの妻と暮らすうちに、都の風俗に憧れてなじんだのでしょうか。雑煮も博多風ではなく、京都風でした。

注連縄を本郷薬師門前の屋台で買いました。来ないのかと思ったよ、と親父に言うと、今年は正直随分迷った、と言う。スーパーで売る鏡餅にはよけいな飾りがついていて、犬の玩具が乗っているのをよく見たら牛だった、という話をして、裏白と譲葉を買いました。よいお年を、と背中に声をかけられました。これで、年は越せそうです。

辻井伸行

毎年、暮にBSフジがピアニスト辻井伸行に密着するドキュメントを放映します。今年は素材が少なかったのか、10年を振り返る構成で、すでに見た場面もありましたが、途切れ途切れに視た中でも、いくつか感動したことがありました(何故途切れ途切れかというと、地上波が同時に、全日本フィギュア選手権の男子フリーを放映したからです。ショートプログラムで視た、変貌した田中刑事羽生結弦のフリーを視たかったので)。

辻井が訪れた欧州の風景も美しかったのですが、彼がラフマニノフショパンや、ベートーベンの使ったピアノを演奏する場面に、しみじみ没入しました。キータッチも違えば音程も少々狂っているピアノを弾きながら、彼はすぐそばに元の持ち主がいるかのような感覚を味わっていたらしい。なじみの旋律、古い家具、窓から差し込む穏やかな日差しや庭木の影・・・私にはそれらすべてが、ソフトフォーカスで角の取れた、なつかしい日々として蘇ってくるようでした。

しかし大曲や難曲を弾く時、ふだんは控えめに、にこにこと話す辻井の表情が、闘う男の顔になっていることを、カメラはまざまざと映し出しました。勿論彼の今日は、画面に映らない多くの人々に支えられているのですが、そこにいるのは、独りの戦士でした。

最も感動的だったのは、彼が現地の人々と共に即興演奏に加わった場面です。「サマータイム」のジャズ演奏や、ベトナムで彼国の楽器と共に奏でた、辻井作曲の「それでも生きていく」。演奏も素晴らしく、現地の人々との一体感も感激的でしたが、殊に後者は、この1世紀の間にさまざまな苦難を乗り越えてきたベトナムの今を想うと、胸に迫るものがあります。

辻井伸行は私にとっては孫くらいの世代ですが、彼と同じ世界に生きることができてよかった、とふと思いました。無論、彼自身には何の関係もないことですが。

音楽療法史研究

『明日へ翔ぶ―人文社会学の新視点―』の編集担当者からメールを貰いました。第2集(風間書房 2011)に執筆した光平有希さんの名前を、心理学関係の雑誌で見つけました、というメールです。光平さんはエリザベト音楽大学出身で、音楽療法史が専門。『明日へ翔ぶ 2』には「楽器を用いた古代ギリシア音楽療法」という論文を寄稿しています。「臨床心理学」21:2にも執筆しているので調べたら、国際日本文化研究センター日文研)に勤めているらしい、とありました。思いがけない発見に喜んで、メールを呉れたようです。

ネットで見るとなるほど、総合大学院で学位を取得し、いまは日文研の特別研究員として活躍しているようでした。臨川書店から『「いやし」としての音楽―江戸期・明治期の日本音楽療法思想史―』(2018)という単著も出ていると分かりました。手許にないのでここで紹介することができませんが、いつかどこかで読んでみたいと思います。

松尾金藏記念奨学基金では、音楽は募集対象になっていませんが、光平さんの場合は、古代ギリシアまで遡って音楽療法の歴史や理念を研究していたので、審査の先生方も期待されたことと思います。指導教授を失って苦労した時期もあったようですが、ともかく大学院修了後の第一関門をみごとに越えてここまで来られたこと、私も嬉しい。

文系の大学院は修了後も10年近く生計が立たず、名刺に刷る肩書がない時期が続くのがごく普通。自分は何者か、何者になれるのか、苦しい時期です。でも誰も援けてくれないと思っているその時期、どこかで必ず、誰かが見ているものです。私もそうでした(その当時はそんな気休め、信じませんでしたが)。やがて脱け出した時、陰ながら喜んでくれている人たちが、必ずいるものです。

信濃便り・クリスマスツリー篇

長野の友人から、今年は一緒に忘年会ができなかったけど、長野駅のクリスマスツリーを見てきたので、と写真が送られてきました。

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長野駅のツリー

長野駅前のツリーは大きいツリー1つと小さいツリー3つからなる、4つのツリーの競演です。このツリーが設置されている場所には、12本の列柱が立ち並び、駅舎の大きな庇を支えています。目を凝らして写真を見て頂くとわかりますが、柱の最上部には大きな提灯が取り付けられ、長野市をアピールするためのキャッチコピー「ながのご縁 縁 信都・長野市」と書かれています。

「ながのご縁を」は、「長野とのご縁」と「末長いご縁を」の掛詞。信都は①信州の都、②善光寺門前町、を意識した語のようです。それらを一言で表現する「縁」という言葉は赤い文字で書かれ、ロゴマークのように丸で囲ってあります。因みに、提灯は因州和紙を使い、ビニールで強化しているとのことです。

コロナ禍で明け暮れた1年、こんな時こそ「縁」が大事、というメッセージだと感じました。】

なるほど苦心して作った惹句のようですね。駅舎の外には多分、本物の雪を被った針葉樹が見られるのでしょう。

長野のビッグハットでは、今日から全日本フィギュアスケート選手権です。

師走の音

以前住んでいた世田谷の家は、駐車場を隔てた向かい側に米屋があり、12月の今頃は朝から1日中、桶や蒸籠を洗っては干す時の、木のぶつかる音が聞こえました。賃餅で忙しかったのです。ここへ越してからもう16年経つのに、師走になると、その音が空耳で聞こえるような気さえします。越して来た最初の頃は、近くの魚屋が正月用の小鯛を焼く匂いが、終日漂っていました。尾を跳ね上げた形に塩を振って、堅く焼き締める祝儀物です。しかしここ数年は、もうやめたようです。

エノキさんと、今年は街が師走らしくならないね、という話をしました。今日、ケンタッキーの前に行列ができているのが不思議だったけど、チーズがどんどん売れているのを見て、イブだ、とはっと気づきました、とのこと。いつも12月に入ると途端に街が師走らしくなるのに、どこが違うんだろう、と言い合いました。まずクリスマスデコレーションが、(あるけど)少なくて簡素だから。クリスマスソングが流れていないから。街の人出は減っていないしせわしそうだけど、うきうき感がない。

エノキさんは記憶がないでしょうが、31年前の師走を思い出しました。冬休みに帰京したら、街は異様に無言でした。数日に1回、夜の街をけたたましいサイレンと共に日赤の車が走り抜けました。皇居へ輸血を運んでいるのだ、とみんな知っていましたが口には出しませんでした。元号が変わってから聞いた話では、丸ノ内のオフィスではショウウィンドウを暗幕で覆ったり、社員はいつでも間に合うように喪章を用意したりしていた、とのことでした。昭和が終わろうとしていた年の暮です。

今年はそれとはやや違いますが、でも時代は変わる、という予感がどこかにあります。来年の暮はどんな音や匂いが、街に流れているでしょうか。

花屋の愚痴

クリスマスの卓上花を買いに、花屋へ寄りました。ウィンドウの中は色彩が乏しく、赤い花はアンスリウムしかない。ヒバの小枝に赤白のアンスリウムを合わせて、低く活けることにしました。帰りざまに、大晦日は何時までやってる?と訊いたら、奥からメモ帳を出してきて、去年、誰が何を買ったか記録してあると言う。我が家はたしか、南天水仙と、何か洋花、それに梔子の実つきの枝を買って、活けてみたら意外に梔子の実がめでたさを演出してくれた記憶があります。

今年は南天が駄目、と花屋の親父が話し始めました。お宅の近くのピラカンサスの藪が丸裸になっちゃったでしょ、と言う。鳥たちにも好みがあって、まず南天の実がなくなり、次に水木、ピラカンサスやコガネモチは最後に食べるのですが、今年はどこも南天が不作で、鳥が飢えているらしい。花屋の自宅の南天にも覆いを掛けておいたのに、鳥たちは下から潜りこんで、食べ尽くしてしまったそうです。

それにコロナで、市場に花が出回らない、とこぼします。春先から冠婚葬祭がなくなり、イベント会場に飾る需要もない。ステイホームで一時期は鉢物が売れたが、その後は売れないから仕入れない、品薄だから売れない、の悪循環。農水省補助金は農家の設備投資用なので、金を貰うだけで花は植えない若手農家が多いのだそうです。飛行機が止まったため、輸入物の苗も入ってこない。茶道家に約束した椿農家も、贈答用の胡蝶蘭専門の農家もやめてしまった、コロナ後も国内産はもうあてにできないだろう、と言う。

要するに、大晦日に希望通りの花はないと思ってくれ、と言われているのだな、じゃあ今年は新しい花を活けるか、とウィンドウを覗きました。薔薇はケニア、斑入りのカーネーションはコロンビアから来たそうです。松があれば、何とかなるでしょう。

去りゆく者は足早に

陽だまりでのんびり朝刊を広げたら、死亡欄に出口典雄の名前を見つけました。劇団シェイクスピアシアター主宰、誤嚥性肺炎のため16日に死去、80歳とあります。学部1年の時(57年前です)、ほんの短い期間在籍した部活の上級生でした(出逢った頃のことを、本ブログに「役者の老後」と題して書いておきました)。

卒業後、アサヒ芸能に入社したがすぐ辞め、劇団を立ち上げた、という噂は聞いていました。その後、Gパンで演じるシェイクスピアの演出家として有名になったことも知っていましたが、私も自分の生活でめいっぱいで、観に行く機会がありませんでした。新聞には、吉田鋼太郎佐野史郎を育てた、とあります。

中高時代からの親友が演劇好きで、随分影響を受けました。彼女は、中学生の演劇コンクールで、何十年に1人の才能、と評され、自分でも演劇の道に進みたかったようですが、当時は、作家や役者は、堅気の家の女の子がなるものではない、というのがごく普通の考え方だったので、銀行に就職後、夜間の俳優養成所に通い、そのうち縁談がまとまりました。一緒にいろんな舞台を観に行ったものです。新劇も歌舞伎も、新国劇、日本舞踊も。ピーター・ブルックの本を読んで、手紙で感想をやりとりしたりもしました。歌舞伎座がはねて、昭和通りを渡りながら、よぼよぼになっても2人でここを通るかもね、酒はストローでチューと呑んだりして、などと話したのですが、36歳で亡くなりました。

定年後、出口典雄演出の公演の広告を見て、花でも持って観に行こうかな、とふと思ったのですが、そのままになりました。行けばよかった、と後悔しましたが後の祭(勿論あちらは、半年も在籍しなかった1年生を覚えてはいません)。去って行く者の足は速い―そう思いながら、新聞を畳みました。