辻井伸行

毎年、暮にBSフジがピアニスト辻井伸行に密着するドキュメントを放映します。今年は素材が少なかったのか、10年を振り返る構成で、すでに見た場面もありましたが、途切れ途切れに視た中でも、いくつか感動したことがありました(何故途切れ途切れかというと、地上波が同時に、全日本フィギュア選手権の男子フリーを放映したからです。ショートプログラムで視た、変貌した田中刑事羽生結弦のフリーを視たかったので)。

辻井が訪れた欧州の風景も美しかったのですが、彼がラフマニノフショパンや、ベートーベンの使ったピアノを演奏する場面に、しみじみ没入しました。キータッチも違えば音程も少々狂っているピアノを弾きながら、彼はすぐそばに元の持ち主がいるかのような感覚を味わっていたらしい。なじみの旋律、古い家具、窓から差し込む穏やかな日差しや庭木の影・・・私にはそれらすべてが、ソフトフォーカスで角の取れた、なつかしい日々として蘇ってくるようでした。

しかし大曲や難曲を弾く時、ふだんは控えめに、にこにこと話す辻井の表情が、闘う男の顔になっていることを、カメラはまざまざと映し出しました。勿論彼の今日は、画面に映らない多くの人々に支えられているのですが、そこにいるのは、独りの戦士でした。

最も感動的だったのは、彼が現地の人々と共に即興演奏に加わった場面です。「サマータイム」のジャズ演奏や、ベトナムで彼国の楽器と共に奏でた、辻井作曲の「それでも生きていく」。演奏も素晴らしく、現地の人々との一体感も感激的でしたが、殊に後者は、この1世紀の間にさまざまな苦難を乗り越えてきたベトナムの今を想うと、胸に迫るものがあります。

辻井伸行は私にとっては孫くらいの世代ですが、彼と同じ世界に生きることができてよかった、とふと思いました。無論、彼自身には何の関係もないことですが。