信濃便り・揚羽篇

最近、ネット上で「あつ森」という語をよく見かけますが、てっきり一ノ谷で直実に討たれた平敦盛のことだと思っていました(当然でしょ?)。じつは「あつまれどうぶつの森」というサイトの略語だそうです。初夏になっていくこの季節、植物だけでなく小動物も、生を楽しみ始めました。

長野の友人から、メール添付で揚羽蝶の写真が来ました。やや暗いのは、明け方の室内で撮ったからです。新聞紙は勿論、信濃毎日。

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生まれたての揚羽蝶

[一昨日、妹が育てていたチョウが羽化し、濡れた羽が乾くと、飛び出して行きました。飛び立つ前、体を休めている写真をお送りします。カラスアゲハだそうです。]

友人の一家は、もう子供たちは独立し、故郷にUターンした70代の3人暮らし。地元の文化財保護など忙しいのに、何度か失敗しながら揚羽蝶の孵化に挑戦しているのは微笑ましく、共感を持ちます。子供の目がなくなったからこそ、やってみたいことがある。

揚羽蝶は平家の紋所でもありましたが、蝶の中でもやはり特別に思えます。子供の頃は紋白蝶、紋黄蝶、それに酢漿草につく紫蜆が、身辺にありふれた蝶でした。夏が近づくと、揚羽の仲間がひらひらと舞い出てきて、その度にはっとしたものです。キアゲハ、タテアゲハ、アオスジアゲハ(ヤブカラシの花が好き)、カラスアゲハ(鬼百合の花によく似合う)・・・今でもたまに、彼らに出会うと胸がときめきます、その日は何かいいことがありそうな。

我が家でも鉢植えの金柑の木に、蛹が出現したことがあったのですが、ある日忽然と姿を消しました。雀か鵯に食われたのでしょう。あいつら梔子の青虫を退治してくれるのは、嬉しいけれど。

缶つま

買い物の回数を減らせ、とのことなので、保存食を点検しました。私たちの世代は未だ、乾物を少しずつ揃えておくのが習慣になっている時代に、主婦になったのです。例えば海苔、干し椎茸、だし昆布、とろろ昆布、削り節、麩、素麺、栃木名産の湯葉と干瓢。ドライフルーツでは枸杞の実(粥に入れると薬膳になる)。この中、麩は優れものです。汁物だけでなく煮物にも、洋風料理にも使える。オニオンスープやトマトソースで煮込んでもよし、非常時にはそのままパンの代わりに食べられます。

この頃缶詰を食べなくなったなあ、と箱を引っ張り出してみて吃驚。秋刀魚蒲焼の缶つまから汁が零れ出て、他の缶詰のラベルがべとべとになり、錆が出てしまっていたのです。缶つまは缶詰ではなく缶入りのつまみ、なのですね。平らに置いておけばよかったのでしょうが、横向きにしてあったので、上蓋の隙間から汁が零れ出たらしい。ということは空気が出入りしているわけで、密閉されていない(有名な水産加工会社の製品ですが)。かつて、遭難した南極探検隊の持っていた缶詰がずっと後に発見されて、美味しく食べられたという話を読んだことがあり、缶詰は半永久的なものと思い込んでいたのは間違いでした(そもそもあれは、南極という天然の冷凍庫の中だった)。

我が家ではアイスクリームを必ず、冷凍庫に保存しています。万一高熱を出した時に食べられる栄養食は、アイスクリームかプリンだけだからです。しかし非常時には、冷蔵庫はあてにできません。乾物や缶詰と食べられる野草とで数日しのいだら、その後は行政が何とかしてくれるのではないかと考えています。知人からは、水仙と韮を間違えたら大変と言われましたが、そんなへまはしません(葉の手触りが違う)。

買い置きすると、毎日、賞味期限を確認する作業が増えます。

無いもの自慢

フリーランスになって研究を続行している定年退職者同志に共通の話題は、健康問題のほかに、必要な資料をどこで見るか、です。日本史の錦織さん(現在は京都在住)と、鳥取大学の同僚だった時代(30年前)の苦労話をメールでやりとりしました。鳥取は今では県立図書館が充実しましたが、当時は半径200km以内には何もない(京都まで行くしかない)という状況でした。

鳥取へ赴任する前、前任者の金井清光氏が学会発表で、「このことは古事類苑に載っているが見なかったか」と追及され、澄まして「鳥取には古事類苑はありません」と答えたので、持参すべきかどうか迷ったのですが、行ってみたらさすがに図書館にありました。後年、宇都宮に赴任したら、大日本仏教全書は栃木県内には1組しかない(国立大学にも県立図書館にもない)と院生が言うので、仰天しました。

[京都では自粛は少し緩められ、市立図書館は限定的ながら利用できるようになりました。各大学は京都産業大クラスターに懲りているようで、閉鎖のままです。

あの頃、大日本仏教全書は、鳥取には皆無でした。授業で使う史料がない時には、待ったなしなので途方に暮れたことを思い出します。ほかにも無いものだらけで、「孫引きというのは、研究者としては、絶対にしてはならないことなのだが」と断りながら、孫引きで講義をしたことも何度かあります。史料編纂所に内地留学したとき、一緒に来ていたのが宮崎大学の人で、うち(の大学)にはこんなものもない、という、無いもの自慢をしあったことがあります。あそこも前身が師範学校と農林学校なので、同じような状況でした。遠い昔のことですが、どこに職を得るかは、まったく運次第で、それが研究にも大きく響くところですね(錦織勤)]。

国立大学の付属図書館同士の貸借は可能でしたが、取り寄せた本は図書館長が金庫に保管して閲覧させました。今はあの時代よりも多少、便利になったと言えるでしょうか。

友人が、コロナ下での買い物を心配して野菜を送ってくれた中に、蕗の束がありました。子供の頃、モヤシの足切りやサヤエンドウの筋取り、蕗の茎剥きは私の役目でした。月に何回かある「お命日」は、祖母が精進料理を作る慣わしでしたが、そういう日はよく蕗が出たのです。当時の蕗はアクが強くて、爪の中までが真っ黒になるのが嫌でした。剥いた後、木灰か重曹を入れて茹でました。

さあどうしよう、重曹は常備していないが、と友人に問い合わせたら、細いものはそのまま、太いものは茹でこぼした後半日くらい水にさらす、とのこと。その日は細いものを塩ずりして、油揚げと一緒に味醂と醤油で煮ました。蕗の香りが台所一杯に漂って、ああいい香りだったんだと思いました。この日の献立は、ベーコンとたらの芽を白ワインと塩胡椒で炒めたもの、自家製のセロリ醤油漬、冷奴の明太子載せ。

残りの蕗はアクを恐れて茹ですぎ、香りは飛んでしまいましたが、白だしで煮ました。蕗を活かすにはこの方がいいようです。献立は鶏挽肉と芹の塩炒め、明太子を柚子果汁で洗った小鉢に蕪の浅漬、大ぶりな盃に盛りつけたミニトマトのマヨネーズ添え。去りゆく春を堪能できました。我が家ではブロッコリーの茎や、胡瓜、蕪、長芋などを拍子木に切って、ジャムの空瓶で醤油漬を作るのですが、蕗もやってみることにしました。

3日目はシラスと一緒にきんぴらにし、唐辛子を振りました。献立は鰺の刺身、牛の切り落としとアスパラガスの炒め物、蚕豆、ブロッコリーにマヨネーズ。きんぴらは作り置きにもなり、酒肴にもなる。蕗はもう、昔の蕗とは違うのですね。

こうして、過去に受け入れ難かったものたちと1種ずつ、あるいは1人ずつ、仲直りしていくのが老後の醍醐味かもしれません。

白い蒲公英

中西達治さんから、白と黄色の蒲公英が咲き乱れる写真の葉書が来ました。蕪村の「北寿老仙をいたむ」「春風馬堤曲」を引いて、シロバナタンポポは子供の頃からあったが、繁殖力の強い外来種の黄花に逐われがちだった、今年になってようやく、在来種のカンサイタンポポと並べて写真が撮れるまでになった、と書いてあります。

蕪村の「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲」)を初めて読んだのは、大学受験の頃だったでしょうかー君を思ふて岡のべに行きつ遊ぶ 岡のべ何ぞかく悲しき。蒲公英の黄に薺の白う咲きたる 見る人ぞなき・・・近世の作とは思えず、このまま近代詩、室尾犀星作だと言われてもおかしくないと思いました。今でも好きな作品です。後に大学院で、三好行雄先生が講じた近体詩の特講は、この作品から始まりました。

「春風馬堤曲」の方は、藪入りの道中という設定に漢語がなじみませんでしたが、印象は強く残りました。学部時代、近世文学の堤精二先生が、大学院の演習で1人1行2時間の発表をさせられたという思い出話をしたのを覚えています。半世紀前の大学構内には、白花蒲公英も咲いていました。同級生に教えたら、歓声を上げて摘み取り、バッグのポケットに挿したので、深く後悔しました。蒲公英は直射日光の下でしか開かず、すぐ萎れてしまうからです。同時に、天真爛漫の同級生を羨ましくも思いました。

40年前、通勤した南町田は、未だ人家もなく、一面の草原に咲く蒲公英を見ながら、キンダーブックのようだ、と思いつつ通いました。幼時に見たキンダーブックの絵本では、花の咲く草原は、緑の地に黄色い丸が点々と描かれることで表現されていたからです。近年、東京では白い蒲公英を見る機会は殆どありませんでしたが、せんだって青山霊園で野生しているのを見かけ、懐かしく思いました。

鎌倉期の侍と凡下

錦織勤さんの「鎌倉期の侍と凡下」(「鎌倉遺文研究」45号)を読みました。錦織さんは定年後、鳥取から京都へ移住、その際、近隣の大学や図書館の蔵書を調べ、雑誌の欠号を寄贈して、自分の蔵書は整理してから引っ越したという、用意のいい人です。掲載誌の送り状には、[50代から退職まで、学部改組によって日本史の授業がなくなり、地域社会論とか地域環境論というような名前の授業だけになりました。研究も自ずとそういう方向のものを求められ、中世史研究とは距離を置くようになってしまいました。定年を機にやり残した研究をしたいと思い、細々と続けていましたが、1本まとめるのに5年もかかってしまいました。気持ちとしては、もう少し、中世前期の身分とは何か、という問題を考えてみたいと思っています。]とありました。

本論文は①侍を規定するものは官位や名字ではない ②鎌倉幕府法で侍というのは御家人のことである ③凡下とは下位の者を指す語で、対比される者によって流動的である ④幕府法のいう凡下には、郎等と雑人が含まれる ⑤非幕府法で侍とは、主人の傍近くに「さぶらう」者という意で、決まった身分集団ではない と論じていますが、身分とは何か、身分というものがどのように形成されていくのかを視野に入れているとのことで、さくさくと、分かりやすく述べられています。現代のように、用語を厳密に規定して使っていたわけではない時代の史料には、こういう検証が繰り返されることが必須でしょう。

本誌には下村周太郎さんが「Web版鎌倉遺文配信に寄せて」という副題で、文書中の「近曾」が「近会」と翻字されてしまった例を取り上げています。そのうち近会を「さいつごろ」と訓む人が出てきたりはしないか、心配になりました。久保田和彦さんの『六波羅探題研究の軌跡 研究史ハンドブック』(文学通信)も紹介されています。

ハモンドオルガン

古関裕而という名前とハモンドオルガンとは、記憶の中で堅く結びついています。子供の頃(70年前です)、夕方6時、ハモンドオルガンが軽快に奏でるテーマ音楽に載せて、菊田一夫作・古関祐而音楽というコンビで放送された、連続ラジオドラマがありました。

一番古い記憶は「鐘の鳴る丘」(主題歌「とんがり帽子」)です。戦災孤児たちが暮らす施設が舞台でした。主題歌は人気があり、たしか11番くらいまで歌詞が作られたと思います。歌詞は身にしみるものでしたが、筋は殆ど覚えていません。ただ「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台」という欧風、童話的な建物はロマンチックで、現実離れしていると子供心にも思いました。菊田一夫古関裕而、そして声優巌金四郎(歌手なら藤山一郎)という組み合わせは、当時のNHKの顔でした。

当時(戦後の物資のない時代)はあらゆる物が「代用品」だったので、ハモンドオルガンも簡易オルガンかと思っていましたが、調べてみると、1930年代からジャズやロックの世界で愛用され、70年代にシンセサイザーに取って代わられた電子楽器だったのですね。古関裕而から冨田勲へ、という音楽史は考えたこともありませんでした。

作品一覧を眺めると、その時代の人の心を掴んだ曲が幾つもあるー「長崎の鐘」「イヨマンテの夜」「フランチェスカの鐘」「黒百合の歌」「栄冠は君に輝く」・・・軍歌もそういう才能の表れだったのでしょうか。芸術作品の自立性は難しい問題です。解釈は享受者の自由、しかしこういう利用の仕方だけはできないという仕掛けをしておくべきだ、という意見に共感します。数日前、桑田佳祐のステイ・ホームブルースが出ましたが、見境なく抱きつくことはできない仕掛けになっている。

私は朝ドラも文春新書も見ていないので、あくまで個人的追想です。