眠れる森の魔女

真意を誤解される恐れがある言を撤回した女性政治家。近年の政治家たちには、撤回すりゃいいのか、と問い返したくなる場面が屡々です。撤回すれば言わなかったことになるのか。子供の頃読んだ『眠れる森の美女』という童話で強く印象づけられ、今もなお頭を離れない語がありますー先に出た言葉には追いつけないので。それゆえ善意ある魔女は、美女を王子の救援があるまで死なせず、眠らせることしかできませんでした。

ネット上ではマスコミの言葉狩りだとして、女性政治家をかばう発言の方が多いようですが、問題はそこではない。そもそも自分が当選したのは女性票だけのおかげですか?18日の静岡にいたのは女性だけですか?自分が女だから(しかも子供を産んだ女だから)、というので選んだ文飾でしょうが、それがもう政治感覚として落第点。さらに産みの苦しみはすごい、と経験していない人、経験できない人とは共有できない体験価値をふりかざしている。政治家としての器が問題なのです。

彼女のことは今年の1月、2月と本ブログに2回も書きました。読み返したら、我ながらこういう事態を予期したかのようなフレーズが見つかりました。その1は、応援と差別は屡々裏表だということ。選挙応援で昂揚していたのでしょうが、「女性のパワーで未来を変える」のにあんな比喩を使う必要はない。女性のパワーは産みの苦しみに耐えられることだけですか?その2は、「美人とは言わんけれども」と失言した親分とは、同じ共同体の中にいる人だということ。感覚の古さ、つまらぬたとえ話、独り合点の親近感。全くと言っていいほど同じ趣味です。新味のある総理候補に立てるのは無理。

多分、彼女は実務家としては有能なのでしょう。しかし法相時代の行跡も含めて政治家としての見識、「未来を」どう「変える」のか、性別に関係なく警戒したいと思います。