日野政資

藤立紘輝さんの論文「日野政資考」(「皇學館論叢」56:3)を読みました。私は専門外でもあり、この時代には詳しくもなく、また従来、日野政資のまとまった伝記はなかったようなので、本論文の内容のいちいちの当否についてはここで判断は出来ません。しかし先行研究はもとより、史料を博捜し、当時の政治情勢を総合的に見渡して書かれた労作です。注が多すぎる(計20頁に注は132まであり!)など、整理の工夫が欲しいところもありますが、力作であることは間違いないと思います。

日野政資(1469-1495)は、足利義政正室日野富子の兄勝光の嫡子、若くして亡くなっていますが、足利将軍の側近の中でも軍事や儀礼に関する重い位置を占めた日野家当主としての務めを果たし、この時期の公家社会の現実を窺わせる人物でもあったようです。

本論文は、1応仁・文明の乱と日野家 2乱後における日野政資の動向 3明応の政変日野家 の3部構成になっています。応仁・文明の乱の時期、幕府政治に影響力ある存在であった日野勝光の死後、8才で家督を継いだ政資は、叔母富子や足利義政の庇護によって公家社会での活動を開始し、本来九条家の家礼であったにも拘わらず二条持通の猶子となり、それはこの時期、両家の利害関係が一致した結果と推測されるという。政資は富子・義政・二条持通の後盾を得て順調に昇進し、21才で(延徳元年=1489)従三位となり、さらに文明12(1480)年には妹が足利義尚正室となって、同18年の義尚の右大将拝賀の実務を支えたり、長享元(1487)年の六角氏討伐に従軍したり、活躍したらしい。しかし明応2(1493)年の頃から動静が史料に見えなくなり、27才で死去、その後家督争いが起こって、日野家は没落していったようです。室町の名門の浮沈は、軍記研究者には興味が湧きます。