『源実朝ー虚実を越えて』(勉誠出版「アジア遊学」241 2019)を読みました。論文15本が収載されています。坂井孝一「建保年間の源実朝と鎌倉幕府」、高橋典幸「文書にみる実朝」などの史学的立場、渡部泰明「実朝像の由来」、久保田淳「実朝の自然詠数首について」、前田雅之「実朝の題詠歌」など和歌的表現の蓄積から論じるもの、中川博夫の定家所伝本・小川剛生の柳営亜槐本の性格を明らかにする論、源健一郎・小林直樹・中村翼の宗教史的研究など、それぞれ最先端と見受けました。
私が最も読み応えを感じたのは、小川剛生「柳営亜槐本をめぐる問題」で、足利義尚が文明15年(1483)に企画した私撰集編纂の一環として書写、部類したのが、柳営亜槐本『金槐和歌集』であると主張しています。論旨明快です。源健一郎「中世伝承世界の〈実朝〉」と小林直樹「『沙石集』の実朝伝説」は、同じ題材を扱って、『吾妻鏡』の実朝記事の偏向を浮かび上がらせています。ちょうど土屋有理子「無住と日中渡航僧」(「国文学研究」190)という論文も読んだところで、禅宗と説話や軍記物語の関係が、いま注目の潮流であることがよく解りました。
言葉の多層化にこだわって作品を読んでいく3本の論文を読みながら、もう半世紀以上前、学部の卒論テーマを決める時、井本農一先生に『金槐集』をやりたい、実朝の万葉調とは何かを考えたいと申し上げたら、卒論テーマには小さすぎる、それは雑誌論文の規模だと言われたことを思い出しました。あの時うまく言えなかったのですが、実朝の歌は万葉調とされるが、じつは圧倒的に二条派ふうの温和しいものが多い、でもその中にも時折、惹かれるものがあることを考えたい、と思っていたのです。
歴史にifは禁物ーでもあの時実朝を選んでいたら、今頃何をしていたかしら。