救済

少年タレント養成の凄腕で鳴らした社長が亡くなった後、被害者たちの「救済」事業について報じられています。おぞましさと共に、さまざまな難しさにくるみ込まれた問題ですが、一番手前にある疑問を書いてみると、「救済」という言葉に引っ掛かるのです。この場合、誰が誰を救済するのだろうか。宗教2世の問題にも使われており、そちらは幾分妥当性があるような気もするのですが、やはり誰が主体なのか、ひょっとして社会や国に対して期待するところがあるのか、と怪訝な思いが拭えません。

「補償」という語も使われており、まだしもその方が適切な気もしますが、何を補償するのだろう、果たしてできるのか、という疑問が湧いてきます。少年タレント養成事務所側からは謝罪(その意味での償い)と言うのが妥当でしょう。金銭的に困っているから救援するわけではない、しかし金銭でしか償いの方法がない、ということです。突き詰めていくと、あたら人生を踏みにじられた、その弁償はどうしたらできるのか、ということになる。被害者自身、何をどうして欲しいのかは、一律ではないと思います。

アイドルブームの後半、歌も上手くない、ただ集団で跳びはねているだけの男の子たちが流行り始めた時、うすうす「少年愛」の商品化を感じました。いま思うと、亡くなった社長の個人的性向だけが原因ではなかったのでは、という気もします。性愛には一種のマウント、支配被支配と紙一重の部分がある。凄腕社長は意識していたかどうかは別として、それを少年たちに教え込んだのではなかったか。あの当時の大衆は、そうして仕立て上げられたタレントのファンとなり、「応援」してきたのではなかったか。

芸能界も観客側も報道も、それを「享受」してきたところがある。そこが、この問題の難しさでありおぞましさの一因でもあるのでは、と考えたりするのです。