中世文学68

「中世文学」68号を読みました。関心のある箇所を主に読んだのですが、学会誌らしく、新人の論文もなかなか重いな、と思いました。

シンポジウム「中世文学と絵画」(石川透・藤原重雄・山本聡美・斎藤真麻理)では、絵画研究が次第に、文学や歴史の分野へ、有機的に組みこまれてきた過程が感じられ、10数年前の共同研究の際、頻りに絵画資料研究に方法論はあるのか、と問うて当惑されたことを思い出しました。近年、画像保存・処理の技術が広く普及したことの効果は大きい。藤原さんの「洛中洛外図屏風の祖型を探る」は、絵画資料の「諸本」「祖型」を追究する姿勢に軍記の諸本論・成立論が思い合わせられ、禁欲的でスマートな手法に納得がいきました。斎藤さんの「酒呑童子の水脈」は、多くの写本が残る酒呑童子絵の原点に、末世の邪悪を弥勒菩薩の化身である一条天皇の権威が退治するという構想があり、中世においては福神布袋が弥勒の再誕として描かれたことから、福富草子や病草子、さらに当時の下京七条という場のイメージについても説き明かす、溌剌たる論考で堪能しました。

本誌の圧巻は斎藤論文と共に、猪瀬千尋さんの「元永元年の扶桑老」でしょう。芸能史研究の金字塔林屋辰三郎の散所論を発展的に検証しようとしており、四天王寺の楽人と宮廷雅楽の関係を冷静に辿り、似たような性格と考えられてきた古事談・古今著聞集・続古事談の姿勢の相違をも照らし出した、重厚感ある論文です。近年注目の音楽説話研究の中でも、水準を抜いていると言えるのではないでしょうか。堪能しました。

小秋元三八人さんの「『足利季世記』受容の実態」も力作。未着手の資料が堆積している戦国軍記が今後、注目されていくのでしょうが、この分野は性急に大きな口を利かない方がよい。その方が未来が開けます。