昨日の軍記・語り物研究会大会講演2本目は早川厚一さんの「3つの軍記物語の全釈を試みて」でした。早川さんは学部では渥美かをる氏、院では山下宏明さんのお弟子さんで、永いこと名古屋の軍記物語研究の世話役でもありました。
市民講座で保元物語・平治物語の講読を、共同研究として四部合戦状本平家物語(その成果は和泉書院から刊行中)、源平盛衰記(名古屋学院大学紀要に連載中)を、そして源平闘諍録(13まで上記の紀要に連載、以降は未発表)の全注釈をこつこつと続けており、そこから見つけた課題と展望を回顧を交えながら語る、との前置きでした。
全注釈を思い立ったのは、引用する漢文資料の訓みを示さない論文が多く、自分なりの釈文を示して論じるべきだと思ったのがきっかけ、との言。栃木孝惟さんもかつて同じ事を言っておられました。早くからDBソフトやOCRソフトを使って、テキストのデータ化を私的に進め、読み本系3本の人名索引を作ったりしていた(延慶本人名索引は汲古書院から既刊)のがいま役に立っている、とのことでした。
闘諍録は端本なのではなく、当初から5巻本として作られたという自説が近年次第に受け入れられるようになってきた、とのこと。私も可能性としてはアリだと思いますが、では何故壇浦合戦の手前で終わっているのか、巻立の特殊性は、など未解明の問題が少なくない。四部本はいま灌頂巻の注釈原稿作成中だそうですが、動詞「申す」が助動詞「き」已然形に接続する際、「セシカ」になる例が多く、国語学的には鎌倉中後期以降、坂東、それも日蓮関係の資料に多い現象だとの指摘があるそうで、四部本の成立年代や文化圏の手がかりになるかどうか検討中という話が面白かった。国語学の所見は数値として出てくるので頼もしいのですが、ただ、あくまで統計的な蓋然性の話なので、例の総数が少ない場合は用心が必要ではないでしょうか。
源平盛衰記の共同研究は、1年に1巻の3分の1ずつ成稿しているので、完成まであと127年かかるそうですが、多分野の人たちとの意見交換が楽しそう、と見受けました。しかし長門切は、盛衰記以前であるはずの四部本や闘諍録と一致するものがないので、現段階では古いとは言えないだろう、との言には失望しました。すでに書いたことがありますが、長門切の発見が私たちにつきつけた問題は、諸本の先後、本文流動に関する考え方そのものの組み直しだったのですー中世のある時期、複数の平家物語本文(その多くは読み本系か、その要素が濃いもの)が存在し、相互に交流、変化していた期間があり、その中で比較的はやくからあった本文が、その後さんざん変化を遂げた源平盛衰記にいまもなお残っている、我々は、盛衰記的な本文が平家物語の成長末期ではなく初期から存在し、人々の目を惹いていたと考えてみることが必要だ、と。四部本や闘諍録が盛衰記以前の本文だという固定した諸本論では、長門切は単にその年代判定しか問題にならないでしょう。そもそも四部本や闘諍録は、ある程度出来上がった「平家物語」を改訂したー抄略、変体漢文化したことは歴然としています。現存の読み本系平家物語全巻を、どちらが先かと論じること自体が、あまり有効ではない。寂しいけど、解って貰えないんだなあとオンラインから退室しました。
会場参加者数は分かりませんが、オンライン参加は1日目は25人前後、その殆どがもう知らない名前で、これだけの新人がいるのに、どうして例会が発表希望者なしという理由で流れ続けるのだろう、と思いました。今日が大会2日目、総会が予定されていますが、まずは発表したいと思って貰える会にすることが焦眉の急なのでは。
[追記]早川さんから、講演の真意が伝わっていない、とのメールが来ました。【今は四部本・盛衰記共通本文や闘諍録・盛衰記共通本文に近似した長門切が見出せないが、それは現在見出された80葉余りは、盛衰記からしたら本文全体の1%にも満たないための可能性が大きい。いずれそうした長門切が見出されたならば、長門切の本文的な古さが証明される事にもなろう】とありました。また闘諍録の巻立てや終結部については独自の考えもあるが、今後の課題も多い、とのことでした。