承久の乱と歌人たち

村瀬空さんの論文3本①「『為家家百首』と『日吉社撰歌合』の成立」(「和歌文学研究」2022/6)②「寛喜四年三月『日吉社撰歌合』考ー藤原為家と撰歌ー」(「東京大学国文学論集」18)③「承久の乱後の藤原秀能ー述懐の場と享受者ー」(「国語と国文学」8月)を読みました。①②は連続しており、③はそこから発展したのでしょうか。

専門外ですが、私には②が一番納得できました。①は、散佚作品『為家家百首』(作者25名。承久の乱後、『新勅撰集』下命以前では最大規模のものだったらしい)が寛喜元年頃の企画で、当初から日吉奉納を意図したわけではなかったこと、九条道家の政治的復権に伴って、為家が御子左家を背負う立場を強く意識し、この百首から日吉社に奉納する五十番歌合を精選したことを述べています。②はその結論を敷衍し、定数歌を母体とする奉納撰歌合という新たな形式を整備した為家の志向を掘り下げ、述懐性、実情性を重視して撰歌していること、奉納された寛喜4年(1232)は承久の乱の痛手から宮廷歌壇が立ち直っていく年であり、歌の家を背負う為家が、和歌の意義を神に向けて表明するには強い気持ちがあったであろうことを推測しています。後年、この撰歌合から17首を『続後撰集』に入集させた為家の生涯においても、重要な行事だったというのです。

③は後鳥羽院近習秀能について、『為家家百首』『当座10首歌会』『如願法師集』などから詠作を分析、述懐性が強いが場を共にする享受者の理解を得る工夫がされており、関東武士たちにも受け入れられたであろうと推測しています。

和歌研究の方からは時代性、社会性を広げて表現を考察する傾向が出てきている昨今、軍記研究が歴史学にばかり目を向けているのは残念なことです。中世人たちの表現の営みの径庭を考えるのに、他分野の文学研究から学ぶことは多いはずだから。

追記:村瀬さんからは修士課程で秀能を研究、その後為家に移った、とメールが来ました。門外漢の私には、為家は政治や思想に首を突っ込みたがる歌人、という印象で、佐藤恒雄さんの大著『藤原為家研究』(笠間書院 2008)も後嵯峨院時代と『続後撰集』を中心に拾い読みしただけ、未開の領域が残る対象と勝手に考えています。