國學院雑誌1394号

國學院雑誌」6月号で、現代民俗論が専門の飯倉義之さんが、「SNS炎上と「文明開化の民話」」と題するコラムを書いています。回転寿司店で非衛生な悪ふざけをした若者の投稿動画が炎上し、犯人たちは口を揃えて、仲間にうけるつもりでやっただけ、という意味のことを言っている事件を取り上げ、「文明開化の民話」と呼ばれる話型ー明治維新の近代文明に遭遇した(時代遅れの)人間が、おかしな勘違いをしでかす話型と同じだと指摘しています。なるほど江戸時代の笑話にも、田舎者や身分の異なる者が異文化に出遭って失敗する話があり、それらとも共通するわけでしょうか。アナログ世代の私たちは、ITの特徴をまず、全世界に同時公開される、という点でとらえるのですが、デジタルネイティヴ世代は、家族や友達とのムラ世界の繋がりだけを意識して使っているのではないかとの指摘には、驚かされ、次いで納得しました。

本誌には岩崎雅彦さんの「能の注釈としての間狂言ー《高砂》《敦盛》《昭君》の場合ー」や、村上瑞木さんの「水戸藩領内における徳川斉昭の名所創出ー「水戸八景」と偕楽園好文亭を中心にー」も載っています。前者は間狂言はいわば能の注釈であるとして、時代や流派によってそれがどう異なるかを、世阿弥作の3作品を例に考察しています。本筋の合間に注釈が挟まれる、という説明はなるほどと思いましたが、単なる注釈・解説ではなく、そこにはずらしもあればもじりも含まれ、それぞれの事情が絡んでいたと想像されます。何故この3作を取り上げたのかを、簡単にでも述べておいて欲しかったと思いました。何かしら共通性、もしくは相反性があるのかしら。

後者は院生の学会報告らしいのですが、力作。政治と景観と文学との関わりを、水戸の偕楽園を題材に考察しています。本誌に関するお問い合わせは03-5466-4813まで。