法然義と平家物語

源健一郎さんから抜刷が1束送られてきたので、読みました。①「『平家物語法然義論争の前提」(「同志社国文学」2021)②「『平家物語』における<法然>の位置づけ」(同2023)、その前提となる③「『平家物語』と法然浄土教とを巡る近代的認識」(「軍記と語り物」2013)④「『平家物語』と仏教とを巡る近代的認識」(「仏教文学」2013)で、一連の論考を構成しているようです。

源さんは僧籍にあり、仏教と平家物語の関係が主たる関心となるのは自然なことです。多くの先行研究を取り上げ、総じて力作と言えますが、平家物語論というより「仏教思想研究と文学研究」とでも題すべきでしょう。特に③④はかなり声高で、筑土鈴寛を「東大国文学アカデミズム」で括ってしまうなど苦笑する箇所もあり、「国民的叙事詩」論批判には見落とされた視点もありますが、最も平家物語論らしいのは、②です。

仏教の各宗派と文学の関係を掘り起こす論を見ると私はいつも、当時の仏法はそんなに宗派ごとの区別が画然としていたわけではない、という山田昭全さんの発言を思い起こします。ましてその時代に生きた個人の心身に浸透していたのは、混然とした教義だったでしょう。宗義を指標にして物語の主張や作者を推定するのは虚しい。物語には物語の論理、必要があるー三宝を破壊した重衡は、極悪非道、通常では救済はあり得ない、しかし戦乱の世では同様の重罪を犯すことは他人事ではなかった。その重衡が(清盛とは違って)どうなったかを語ることは、平家物語にとって最重要事でした。②p52の結論は、顕密仏教によるかどうかはともかく、概ね肯定できます。

①では井手恒雄・小林智昭論争の根底にあった文学観の相違は述べられず、研究史は書く人自身のものであって標準的な視野なんて無いのだと、ちょっと寂しい気もしました。