未完の秋月伝

郵便受から取り出した1枚の葉書ー寒中見舞に、衝撃を受けました。中西達治さんが昨年11月30日に、83歳で亡くなったとある。たしか12月早々に、「明治16年、秋月胤永60歳の決断」(「金城学院大学論集人文科学編」19:1 2022/9)の抜刷を受け取って、ツンドクの山の一番上に置いたままになっていたはず。いつもなら入っている手紙や庭前の花の写真がなかったので、そのまま積んでしまったのです。ではあれは、御遺族が投函して下さったのだったか。

中西さんは太平記が御専門でしたが、東京や名古屋の研究者仲間とは軽く距離を空け、マイペースで、途切れなく仕事を続けていました。しかし甘い仕事をする研究者への批判は手厳しく、ちょっと恐くもありましたが、私は可愛がって頂いたと思っています。名古屋在勤時代は非常勤に招んで頂いたし、転勤後も絶えず論考を送って頂きました。故福田秀一さんの収集した、太平記に関する近現代の著作のコレクションを、金城学院大学へ寄贈する際にもお世話になりました。

近年は、戊辰戦争美濃国高須藩に預けられた秋月悌次郎(胤永)の伝記を、こつこつと書き続け、ちょうど彼の還暦の年、明治16年の項を書き終えたところだったのです。この年、秋月は次男のいる東京へ移り、旧主松平容保の子息を初め彼を慕う門下生を教えながら、それまでの人脈を通してあちこちから助力を求められていたらしい。現代の我々からは想像し難い価値観の変動のさなか、人材確保と次世代教育とが、社会的にいかに重視されていたかが判ります。

すでに秋月伝は何種か出されてはいますが、中西さんの『秋月悌次郎伝』はついに未完になりました。花便りももう来ません。「歳月人を待たず」を噛みしめながら、合掌。