美濃国便り・従軍日記篇

岐阜の中西さんから巣ごもり通信号外が来ました。「田山花袋第二軍従征日記のこと」と題されています。秋月悌次郎(胤永)一族の伝記を追跡している中西さんの許へ、田山花袋の『第二軍従征日記』(博文館 明治38)に、悌次郎の息子胤逸(かずのぶ)が出てくるとの知らせがあったそうです。

明治37(1904)年2月、日露戦争が始まり、203高地陥落の報に沸いていた日本から、博文館の写真報道班の一員として4月に田山花袋が乗り込んだ輸送船(もと民間の客船だった第1八幡丸)に陸軍中尉秋山胤逸がおり、軍医森林太郎(鴎外)もいたらしい。花袋は当時33歳、未だ作家としてより紀行文編集で知られていました。中西さんが引用している従征日記は、勿論、日本軍賛美の明るく元気な文調ですが、6月16日の項に、復州街道を30km近く行軍する途中の村落で、鶏卵を売りに来た中国人が4個10銭に値切られて承諾しなかったため、秋月中尉が「悉皆叩きつけて」割った挿話が記されています。同行する日本の民間人には気を遣う青年将校が、言うことを聞かぬ中国人には癇癪を起こす姿が印象に残ったらしい、と中西さんは言います。

この後、花袋は8月に海城で発熱し、鴎外の診察も受け、9月には下船して大連から帰国します。未だ民間の現地人と良好な関係にあった挿話が、多く語られています。

絵心のあったという胤逸の掛幅3種(鍾馗、達磨、巴御前)の写真紹介後、中西さんはこう締めくくっています。【昭和21年に小学校に入学した私たち以後の世代は、戦争は愚だという平和教育を受けて育ったわけですが、戦争の実態をほとんど教えられていません。今改めて花袋のこの日記を読んでみますと、肯定的に取り上げられている戦争の実態描写の中に、戦場の悲惨さ、無情さなどもきっちり描き出されています。】