素声

鈴木孝庸さんの「平曲(しらこえ)ノートー規範と自由裁量とー」(「会報よつのを」10号 荻野検校顕彰会)を読みました。短いものですが、とても重要な論考です。

平曲(平家語り)は、決まった曲節(それぞれ名称がある)の組み合わせで構成されており、譜本には、曲節が変わる箇所ごとに書き込まれ、部分的な語り方が墨譜(はかせ)という記号で詞章に並記されています。最も主要な曲節は口説(くどき)で、素声(しらごえ。白声とも)はメロディがなく、朗読に近い曲節ですが、平曲指南書には最も易しくて難しい、とされるものです。

鈴木さんによれば、口説も素声も1文字1音の発声なので、他の曲節よりも詞章が伝わりやすくなっており、素声は、口説と違って音程が決められているのではなく演誦者の裁量によって高低を決めるのだそうですが、やや高い音を出すべき「上」という墨譜が付けられている「木曽最期」を例に、詞章と音曲的効果との関係が考察されています。その結果、平曲は実況語りのように、現実の音声や人物の感情を模写しようとはしていない、乳母子の兼平があれほど恐れた不名誉な死(「いふ甲斐なき人の郎等に」)が実現してしまったと語る物語の論理は、素声によってこそ出来た表現なのである、というのです。

さらに譜本同士を年代ごとに比較して、『平家正節』に至って演誦者がより深く物語世界に関わっていくような墨譜が付けられたと推測しています。

感無量でした。平家物語が音曲と文字の両方に跨がって、どのような物語を表現し得たのか、かつて曲節が「勇壮」だとか「嫋々たる」だとかいう評言と詞章とを結びつけて論じられた段階から、ようやくここまで来たのだ、と思いました。鈴木さん自身が言うように、この考察はさらに検討を重ねる必要があるでしょう。自ら演誦を試みながら研究してきた鈴木さんだから出来たこと。長生きして下さい。

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