停戦交渉

昨日の大手紙の「オピニオン」欄に,、ある政治学者の寄稿が掲載されました。見出しは「犠牲を問わぬ地上戦 国際秩序のため容認 正義はそこにあるか」というもの。「釈然としない」、「わからない」、「耳を疑う」などの語を連発しながら、ウクライナが民主主義を守るために独裁国家と戦っているとみなす風潮を批判、ロシアが敗退する可能性は低く、「個人の生存は国に先行する価値である」のだから、プラハやパリの例に倣うことを勧めています。

一読、私は憤りを感じました。こういう文章が専門家の肩書で、大きな紙面を与えられることに対して、です。そもそも論理的一貫性の認めにくい文章ですが、ウクライナ政府を批判するに当たって、その歴史と政治状況をどれだけ理解しているのか、と。

ウクライナはいま戦時中(他国からしかけられた)です。大統領が総動員令を出したことや、亡命政権を拒否したことを、彼の前歴に絡めてあたかもスターになるためであったかのように表現するのはいかがか。兵役年齢の男子が出国を禁止されたことを、平和時の人権問題と同様に(外国人が)論じ得るのかどうか(それ以外の国民には、不十分ながら避難ルートの確保や呼びかけも行われている)。

ロシアの勝利が遠のくこと=平和が来ないことだという図式そのものが、非人道的な前提ではないか。ウクライナの歴史を繙けば、ロシアの属国となることが、決して一律対等な国の一部になることとは考えられない、という彼らの恐怖がよく分かります。それは遠い記憶ではなく、2014年にも蘇ったのではないでしょうか。

亡命政権の行方はアフガニスタンを見れば分かるはず。ウクライナ大統領はいま自分が英雄の役を務めることが必要であることを知り、そして自らも死と背中合わせの日々を送っている。冷戦終了後に解放されたプラハやパリの例が、何の参考になるというのか。

釈然としないのはむしろ、停戦交渉の際に、各国がなぜロシアの戦闘行為をやめさせなかったのか、です。攻撃されながら停戦交渉に応じる側の立場は、正しく守られたと言えるのか。そういう時の知恵を出すためにこそ、政治学者の仕事があるのではないのか。

停戦、降伏を決めるのは彼国の人たちです。戦場報道がやめば、私たちの気は楽になるでしょうが、犠牲になるのは誰なのか。同時代人の私たちは、このつらさに耐えて見つめ続ける義務を背負うのです。戦争が始まるとは、そういうことです。始めてはいけない。