真夏の夜の夢

ピーター・ブルックが亡くなったという報道を知り、享年97と聞いて、あああの頃は40代半ばの仕事盛りだったんだ、と感慨に耽りました。あの頃、というのは彼が「真夏の夜の夢」や「リア王」の斬新な舞台演出で有名になった頃です。

中学・高校の同級で演劇好きの親友がいたことは、本ブログに度々書きました。演技者としての才能も認められていたのですが、当時は役者は堅気の職業とは見られていなかったので、高卒で銀行に就職し、夜間の俳優養成所に一時通ったものの、19歳で結婚が決まって名古屋へ行き、ふっつり辞めました。

彼女と一緒に、よく歌舞伎や新劇を観に行ったものです。1963年砂防会館で行われた劇団「雲」の旗挙げ公演は、「真夏の夜の夢」でした(開演前の行列に三島由紀夫の車が突っ込んできた話は、以前書きました)。ブルックが空中ブランコを使って話題になった「真夏の夜の夢」は調べると1971年、来日公演は1973年ですからそれより前で、ごちゃごちゃと作り物のある舞台だったはずですが、活気に溢れた楽しい舞台でした。

友人もブルックに関心を持ち、著書『なにもない空間』を買って読んだ、というので私も借りて読みました。内容は大半忘れてしまいましたが、読む端から共感するところが多かったことを覚えています。演劇の革新派というと、妙に硬い、独善的な風が多かったのに、さくさく解る、他分野にも応用できる、一種の哲学がありました。

影響を受けて、教師とは学者と医師と役者が40:20:30、それに+10%αだと日記に書いたことを思い出します。当時、私は駆け出しの教師でした。

36歳で友人が亡くなった時、棺には使い慣らした買い物袋のほかに、木下順二の『夕鶴』と、あの『なにもない空間』が入れられたと記憶しています。