役者の身体

先日、NHKーBSPTVで「忠臣蔵狂詩曲No.5」というドラマの後編を視て、気になったことを書いてみます。後編だけしか見ていないので、作品全体への批評ではありません。

まず胸に落ちたのは、『忠臣蔵』5段目で、斧定九郎がなぜあんな派手な格好で出るのかということ。私は歌舞伎通ではなく講談や落語も知らなかったので、不審に思いながら観てきたのですが、納得しました(但し仲蔵の工夫というのは事実ではないらしい)。

ドラマの表現で、酒が小道具として巧く使われたことに感心しました。稲荷明神らしきコン大夫との奈落での会話、謎の浪人の呑みっぷり、そして仲蔵が役者を辞めるから最後の舞台を観に来てくれ、と言った時、彼は盃を持って待っているのに、女房が手酌で何杯も飲み続ける場面ーどんな台詞や動作よりも、雰囲気、性格、心理がよく出ていました。

出演者は歌舞伎役者と新劇俳優、タレントの混合でしたが、自ずから出身の相違が出ます。判官切腹の場で、遺言を聞いた由良之助が委細承知、と腹を叩く場面、高嶋政伸は何分の1秒か動作が速すぎ、あれでは買物を頼まれたくらいにしか見えない。また歌舞伎役者は一体に、面長なんですね(今でもかつての殿様だった一族は、面長が多い)。何故だろう?丸顔で「顔が濃い」市村正親は、やはり「テルマエ・ロマエ」かシェイクスピア劇の顔で、眼は大きいが団十郎の顔ではない、と思ってしまいました。

気になったのは発声法です。市村の発声は微妙に歌舞伎とは違う、全く異質ではありませんが。日本の新劇はどこから舞台上の技術を学んできたのだろうか、という疑問が湧き起こりましたー遡れば歌舞伎や能などの発声法を参考にしたのかもしれない。芸能の歴史には、役者の身体という要素が大きく関わっている。日本人がシェイクスピア劇を通じて近代演劇を成立させた時、その地盤はどのように築かれたのでしょうか。