犬王

古川日出男平家物語犬王の巻』(河出書房新社 2017)を読みました。初版を買ったままツンドクになっていたのですが、アニメ『平家物語』が評判になり、今後の若い読者には多かれ少なかれ「古川平家」の影響が残るかも、と考えて読んでみました。

読後感を一言でいうとー小説を読んだのではなく「絵のないマンガ」本を読んだ気がする、でしょうか。この作家の他作品を読んだことがないので、こういう文体、構成が本作品限定なのかどうかが分からないのですが、粗筋と擬音語しかない、マンガの吹き出しを拾って読んだような後味です。

犬王は、具体的な伝記史料に乏しいけれども実在の人物です。盲目の琵琶法師壇ノ浦の友一(五百友魚)は作家が創作した人物。この2人に文学研究の一部の説を膨らませて巻きつけました。壇ノ浦で一旦引き揚げられた宝剣を見たために失明した友魚が、犬王から能の素材となった平家の物語を教えられて語り、後には犬王の数奇な運命を同時進行で語って人気を博す。犬王の「数奇な運命」は、手塚治虫の名作『どろろ』から借用したアイディアに見えます(機能回復を美醜、穢れと浄めに置き換えた)。

商売柄、表現の粗っぽさと、古典語の誤用とが気になって爽快に読めない(例えば五百はイホ、魚はイヲで中世では通音かどうか、「まるっきり」という語は通常否定表現に続くetc.)のは私だけの事情だとしても、能や平家語りのたたずまいとはあまりに遠すぎる。

世上にアニメやゲームが蔓延して、世代を超えて共有する物語の主流がそれらに移った時はどうなるのだろうと、若い人にゲームの物語の主筋は何か、尋ねたことがありました。だいたいはトールキンの『指輪物語』が原型です、と教えられましたが、著しく変形した日本の古典がもとになるとしたら、その方がむしろ一大事かもしれません。